阪神ドラフト改革の裏に09年ドラ1右腕の後悔 1年目春、痛みを申告していれば…
23年、阪神が生え抜き軍団に生まれ変わって18年ぶりの「アレ」を成し遂げました。ドラフト1位クリーンアップトリオが象徴するように、近年のドラフト戦略が花開いた形です。かつてフリーエージェント(FA)選手などの大型補強に頼る印象が強かったチームはどのように変貌を遂げたのでしょうか? 実は改革の起点にはプロ未勝利のまま現役引退した元ドラフト1位、背番号18右腕の苦悩が存在しました。球団広報に転身して7年目の二神一人さん(36)が当時の舞台裏を明かしてくれました。
プロ野球
◆二神一人(ふたがみ・かずひと)1987年(昭62)6月3日、高知・大月町生まれ。高知で3年夏に甲子園に出場。法大では4年の大学選手権で日本一となりMVPにも輝いた。09年ドラフト1位で阪神入団。12年7月6日巨人戦(東京ドーム)で1軍戦初登板。13年はサイドスローも経験した。14年に1軍で11試合登板。15年は中継ぎで1軍12試合に登板し、防御率2・57を記録。16年限りで現役引退し、球団広報に転身。プロ7年間の1軍通算成績は27試合登板で0勝3敗、防御率5・31。現役時代は185センチ、84キロ。右投げ右打ち。
10年春、背番号18の負傷離脱があったから
つい10年前のチーム構成がウソのように、23年の岡田阪神は「生え抜き軍団」と化している。
1番近本光司は18年ドラフト1位。3番森下翔太、4番大山悠輔、5番佐藤輝明は順に22年、16年、20年の同1位メンバーだ。18年ぶりの優勝を果たしたレギュラー野手は助っ人を除けば、全員がドラフト獲得組。
投手も先発陣の柱となった20年5位の村上頌樹、守護神の13年6位岩崎優を筆頭に、大半が生え抜き組で固められている。
かつて他球団からFA選手に大金を積み、日本人メジャーリーガーに声をかけてきた虎は、いかにして生まれ変わったのか。実は1人の元ドラ1右腕の苦悩がドラフト改革の起点となっていた事実はあまり知られていない。
今では有名な話だが、虎が育成路線へ一気にかじを切ったのは15年秋の頃だ。
05年のリーグ優勝から10年間も頂点から遠ざかり、2軍の鳴尾浜球場からも勢いのある報告が届かない。危機感を抱いた球団は不退転の覚悟でレジェンドOB金本知憲の監督招聘(しょうへい)に動き、状況の打開を図った。
当時アマスカウト担当の統括スカウトだった佐野仙好氏はこう振り返る。
「なかなか自前の選手が育たない状況で、会社、現場、スカウトが一体となって『今まで以上に育成に力を入れていこう』となったわけです。そこで担当スカウトは選手の悩みまでケアしよう、現場とスカウトはもっと密に話し合おう、という意識が強くなりました。当然、二神たちの時の反省もありました」
古参スカウトたちの脳裏にこべりついていた苦い記憶。それは10年春、エース番号18を託したドラフト1位右腕が負傷離脱するまでの後悔にあった。
「どうしても言い出せませんでした」
二神一人は「大物ルーキー」だった。
法大4年時の6月に全日本大学野球選手権を制覇し、エースとしてMVPを獲得。同年7月の日米大学野球選手権でも日本代表の主戦投手を任され、大学球界屈指の即戦力右腕だった。
直球は最速150キロを誇り、制球力も十分。09年秋、阪神はドラフト1位で6球団が競合した花巻東の菊池雄星をくじで外すと、迷うことなく二神を「外れ1位」で指名した。
契約金1億円プラス出来高5000万円、年俸1500万円。規定内で最高額の契約金どころか、背番号18まで与えられた。10年2月には当然のように1軍キャンプスタートを切り、沖縄の実戦でも順調に好結果を積み重ねた。
ただ、今振り返れば、二神はもう2月には異変を隠しきれなくなっていた。毎日のように氷囊(ひょうのう)でおなかを冷やしながら宿舎に戻る。周囲から「どこをアイシングしてんねん」とちゃかされていた時期には、刻一刻と限界が近づいていた。
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