流浪の正田樹が導かれた縁「行こうよ」「よく頑張りました」…燕の指導者に舞い戻り

4カ国を渡り歩いた、甲子園のヒーローがいます。正田樹、42歳。桐生第一(群馬)のエース左腕として、99年夏の甲子園を制覇。優勝投手に輝き、同年のドラフト1位で日本ハムに入団しました。02年には新人王も獲得。誰もがうらやむ、華麗なるエリート街道。ただ、そのキャリアは決して順風満帆なものではありませんでした。台湾での野犬に囲まれた寮生活。愛媛のゆず積みのアルバイト経験。紆余(うよ)曲折を経て、来季からヤクルト2軍投手コーチに就任します。日本ハムに始まり、阪神、台湾・興農、ドミニカのウインター・リーグ、レッドソックス、BC・新潟、ヤクルト、台湾・ラミゴ、そして四国IL・愛媛で、終えた現役生活。走り続けた24年を聞きました。(敬称略)

プロ野球

鳴り物入りで日本ハムに

1999年(平11)。今から24年前の日本は、激動の時代だった。

2000年問題(コンピューターが誤作動する可能性があるとされた)が持ち上がり、経済界は揺れた。日本プロレス界の巨星・ジャイアント馬場さんは、61歳の若さでこの世を去った。お茶の間では「だんご3兄弟」が空前の大ヒットを記録。人気ロックバンドGLAYは、幕張メッセで、伝説の20万人ライブ。国内史上最大の規模として、今も不変の記録として語り継がれる。

そんな年。高校野球界の頂に、正田樹は君臨した。

世代の1人しか味わえない夏の甲子園優勝投手の称号。不滅の肩書を引っさげ、鳴り物入りでプロの扉をたたいた。同年のドラフト会議で、日本ハムから単独1位指名。1年目から、いきなり日本ハムの「ナポリピザ」のCMに出演するなど、注目度はうなぎ上りだった。

3年目にして、プロ初勝利を完投でマーク。同年は9勝11敗、防御率3・45でパ・リーグ新人王の称号も手にした。ただ、その後は勝ち星に恵まれず、07年にトレードで阪神へ移籍。新天地では1軍登板がなく、08年に無念の戦力外通告を受けた。

初めての「解雇」。

流浪人・正田樹の始まりだった。

台湾からのオファー

「日本をクビになって、いざ12球団トライアウトを受けたけど、NPBからはお話がないというところで。当時は2回トライアウトがあって、その後1週間くらい待っている間に、台湾の球団から連絡をもらいましたね」

異国の地からのオファー。

「言葉は通じないので、戸惑いもありましたけど。でも、そういうことは気にならなかったですね。コーチ陣に日本人の方もいらっしゃいましたし、トレーナーも日本の方で。何より、野球が出来るなら。それしかなかったです。だから場所はどこでも良かったです」

迷わず、飛び込んだ。2カ国目、自身3チーム目となる台湾・興農。当初は、言語以上に食生活の壁にぶち当たった。

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岐阜県・羽島郡出身。2浪1留の親不孝者。青学大から13年入社。
野球部でアマチュア、巨人、ヤクルト、楽天、DeNA、巨人を歴任。一番の思い出は、19年の台湾出張。痔が悪化し、現地ホテルで試合観戦。異国の地で、購入したボラギノールは忘れられない。
20年からスポーツ部に異動し、サッカー担当に。23年秋から野球部に復帰。好きなものは、優しいウォシュレット。嫌いなものは、硬い椅子。