【日本ハム宮西尚生】6502字の引き際論「一刀両断で…首はねてくれ」/連載102
史上初の通算400ホールドを達成した日本ハム宮西尚生投手(39)のインタビューです。8月4日のソフトバンク戦(みずほペイペイドーム)で大台に到達。17年目の今季は開幕2軍スタートも、6月下旬から昇格してセットアッパーに返り咲き、前人未到の大記録を打ち立てました。ここ数年の苦悩や葛藤とともに、〝ファイターズの偉人〟が思い描く「プロ野球人生の終活」についても聞きました。
プロ野球
◆宮西尚生(みやにし・なおき)1985年(昭60)6月2日、兵庫県生まれ。市尼崎高―関学大を経て07年大学生・社会人ドラフト3巡目で日本ハム入団。1年目からセットアッパーに定着。21年まで新人から14年連続で50試合以上登板はパ・リーグ記録。24年8月4日ソフトバンク戦で史上初の400ホールドを達成した。16、18、19年最優秀中継ぎ投手。17年WBC日本代表。180センチ、80キロ。左投げ左打ち。今季推定年俸5000万円。
――通算400ホールド達成、おめでとうございました
ありがとうございます。
――実感は
400は今まで以上に自分的にもすごいほんまにうれしかったし、周りの反響っていうのも今までに比べもんならんぐらいあったかな。
――350ホールドまでは約2年で節目を刻んできた
だいたい、そうです。ホールドの連盟表彰があって、次は登板の連盟表彰があっての繰り返しやったんです。だから、前にどっかでも言ったんやけど、もう記者の人らも、なんかもう飽きてた(笑い)。ビンビン伝わってきたもん。ほんまに。
だから、そういう意味では、やっぱここ数年、やっぱり苦労していたっていう部分もあったしね。もうほんまに行けるのか…っていう瀬戸際のところもあったし。
それはもう多分、なんやろうね、今まで応援してくれてた人みんなが多分そう思ったやろうなって思うぐらいの反響やったから。だからすごい200とか300とか350の時よりかは、ちょっとレベルが違うんじゃないかな。
――シーズン50試合以上登板の連続記録が途切れた22年以降の3年間はどんな感じだった
いや、ここの3年間というよりも、その前の年か。栗山さんの時の最後のシーズン(21年)と比べたら天と地の差。
だけど、なんて言うかな、なんて言えばいいかな…初めてどん底というか、プロ野球人生で味わったけど、なんて言うのかな、逆に今となれば良かったなって思う自分がすごいいて。
あのままほんまにずっと調子よくて、そのままポンって辞めていったら多分、なんて言うんやろ、言い方変かもしれんけど、調子乗ったまんまの自分でいたかもしんない。
だけど、ここの数年、ファーム暮らしも多くなってきて、やっぱり今まで、なんて言うかな、ファームの選手の気持ちっていうのも全然わかんなかったし、若い子と接することもなかった。もう絡むことすら自分からしてなかったから。
(2軍本拠地の)鎌ケ谷も行くことなかったし、それこそ、もうずっとバリバリ投げてる時は若い子の名前すら分からんまんま辞めていく子もおったし…ってなった時に、今なんて18歳の子とかね、20歳前後の子と過ごす時間も長くなって、なんか野球人としてもそうやし、人間としてもすごい成長できる時間やったから。
なんかすごい今となれば、大事な時間やったなって思うけど、その時期はきつかったよ、もちろん。苦痛やったけど。
――その時期に鎌ケ谷で取材した時もあったんですけど、どう声をかけていいか、こちらも分からなかった
やっぱり2軍暮らしの初めの1年目の時は状態もすごい悪かったし、自分との…なんて言うかな、葛藤というかプライドもあったし、これまでやってきたっていう。すごい自分のメンタルバランスっていうのは、もう今までにないぐらい崩れていたかな。
「俺、こんなにメンタル弱いやな」って。よう強心臓、強心臓とか周りは言ってくれるけど、こんなにメンタル弱かったんやなって思うぐらい、もうどん底やったんよね。
――現役を辞める考えも頭によぎった
あの時は、もう全然ありました。
――最初の2軍暮らしが始まった22年シーズンで、一番きつかった時期は
もう5月、6月。だから1回、広島で抹消された時かな、確か。あそこはもう、きつかったね。
――あの時期はファームでも投げて結果を出しても1軍に呼ばれなかった
っていうのもあるし、ちょうど本当に若い世代に変わっているっていうタイミングもあったし。
でね、やっぱり(チームも)負けが続いていたし。だから、そういう意味では、もういろんなメンタルバランスが、ほんまに崩壊してたよね。
――その22年はシーズン中の9月に左肘を手術し、息子さんのエスコンで投げている姿を見たいっていう言葉にも奮起して現役続行
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