【私と長嶋さん〈11〉】ふぐ料理店での五輪監督要請 ひざまずいての出迎えに恐縮

2004年アテネ五輪開幕5カ月前の3月4日、長嶋茂雄さんは脳梗塞で倒れました。1964年東京大会に魅せられて以来、その後もテレビ局のリポーターなどで深くかかわったオリンピック。長嶋さんは初のオールプロで編成された日本代表監督として憧れの大舞台を待ち望んでいました。「野球人として最後の大仕事」と並々ならぬ覚悟を間近にしてきた日本オリンピック委員会(JOC)の元専務理事の市原則之氏(83)が当時を振り返りました。

プロ野球

◆市原則之(いちはら・のりゆき)1941年(昭16)10月30日生まれ、広島県出身。広島山陽高でハンドボールを開始。広島商科大(現広島修道大)卒業後、大崎電気入社。その後、現役引退も69年に湧永製薬の創部に参画。主力として国体、日本リーグ優勝に貢献。日本代表でも活躍。83年に日本代表監督就任。JOCでは96年アトランタ五輪から本部役員。09年4月からはJOC専務理事を務めた。

「オリンピックに懸ける思い伝わってきました」

02年9月 記者に囲まれる長嶋さん

02年9月 記者に囲まれる長嶋さん

あの長嶋さんが座敷でひざまずいて出迎えてくれた。

アテネ五輪より2年前の2002年9月14日、東京・銀座のふぐ料理店。JOC常務理事で強化担当だった市原氏は長嶋さんにJOC入りと日本代表監督就任を要請するつもりで店に向かった。

「先に長嶋さんが到着していた。しかも立って待っているのではなく、店員さんと一緒に座って待っていてくれたんです。もう恐縮してしまって。でもオリンピックに懸ける思いのようなものが伝わってきました」

「トッププロをまとめられるのはミスターしかいない」

野球は1984年ロサンゼルス五輪で公開競技として実施された。その時は社会人と学生のオールアマで金メダルを獲得。その後も88年ソウル、92年バルセロナ、96年アトランタと連続でメダルを得てきた。

しかし、史上初のプロアマ混成チームとなった00年シドニーでは準決勝でキューバに完敗。3位決定戦でも韓国に敗れた。韓国はほぼプロ選手のドリームチームだった。

「当時は危機感しかなかったです。もうオールプロにしないと金どころかメダルも取れない。ただ、プロ選手はプライドも高いし、言い方は悪いけど、わがままなイメージもある。トッププロたちをまとめられるのはミスターしかいないと」

五輪関係者の間で高まる長嶋待望論。チャンスは来た。02年1月のテレビ朝日のパーティーで、長嶋さんと遭遇した。

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スポーツ

田口潤Jun Taguchi

1972年1月、東京都墨田区生まれ。王貞治さんが育った地域で、小学校の頃は王貞治杯に出場。大学では野球サークルで、野球部希望も入社当初は競馬などを扱うレース部。約8カ月でクビになり、野球以外を扱うスポーツ部。五輪競技、相撲、サッカー、プロレス、格闘技、ボクシング、ゴルフとすべての競技を担当。五輪は98年長野、04年アテネ、14年ソチ、16年リオデジャネイロ大会を取材。