【ジャンボ鶴田を語る:谷津嘉章編】相反する天龍が言った「やっぱり、かなわない」

全日本プロレスで活躍したジャンボ鶴田さんの「23回忌追善興行」が5月31日、東京・後楽園ホールで開催される。00年5月に肝臓移植の手術中に49歳で亡くなった。数々の記録に加え、リング上での余裕の姿勢で「完全無欠のエース」と称された。76年モントリオール五輪にレスリングで出場、全日本時代には鶴田さんと「五輪タッグ」を組んだ谷津嘉章(65=フリー)が、その強さや魅力を語った。

プロレス

72年、ジャイアント馬場と入門時のジャンボ鶴田

72年、ジャイアント馬場と入門時のジャンボ鶴田

ジャンボ鶴田(つるた) 本名鶴田友美。1951年(昭26)3月25日、山梨県生まれ。中大在学中にレスリング選手になり、72年にグレコローマンスタイルでミュンヘン五輪に出場。同年、ジャイアント馬場さんの勧誘で全日本入り。日本人初のAWA世界ヘビー級王座獲得などエースとして活躍した。のち筑波大大学院でコーチ学を学び、99年、ポートランド大客員教授。同年5月にプロレスラー引退を表明。00年5月、フィリピンでの肝移植手術中に大量出血し、49歳で死去した。全盛期の身長体重は、196センチ、127キロ。

全日本プロレス時代の谷津嘉章

全日本プロレス時代の谷津嘉章

谷津嘉章(やつ・よしあき)1956年(昭31)7月19日、群馬県明和町生まれ。レスリングフリースタイルで76年モントリオール五輪8位。80年モスクワ大会は日本のボイコットで不参加。「幻の金メダリスト」と呼ばれた。同年に新日本プロレスでデビュー。全日本などさまざまな団体を渡り歩き、ジャンボ鶴田さんとの「五輪コンビ」で88年に世界タッグ初代王者となる。糖尿病による壊疽(えそ)で19年6月に右足膝下切断も、21年6月に義足レスラーとして再デビューを果たす。同年には東京五輪の聖火ランナーも務めた。186センチ、115キロ。

全日本横浜大会 天龍源一郎(左)にパイルドライバーを見舞うジャンボ鶴田=1990年4月19日

全日本横浜大会 天龍源一郎(左)にパイルドライバーを見舞うジャンボ鶴田=1990年4月19日

――ジャンボ鶴田さんの強さとは

谷津嘉章 自分と同じアマチュアレスリングの出身で、五輪にもグレコローマンの代表で出ているんだけど、どちらかというと彼のバックボーンはバスケットボールだよね。高校でインターハイまで行くんだから、ただものではない。そんな大きな世界から、競技人口の少ないマニアックなレスリングに入ってきた。その時点で可能性はすごくあるわけだから、活躍も必然だった。