「いわきFCは誇りになりたいのです」 58番目に生まれたJクラブの宿命

東日本大震災から11年を迎えた今季、福島第一原発のある「福島浜通り」にJリーグクラブが誕生した。J3に所属するいわきFC。震災からの社会復興の一助となるため、生まれた。地域住民に寄り添うクラブ。その姿や思いを見つめた。(敬称略)

サッカー

福島県いわき市のいわき震災伝承みらい館に設置された約250枚の黄色いハンカチ。追悼や未来へのメッセージが記されている

福島県いわき市のいわき震災伝承みらい館に設置された約250枚の黄色いハンカチ。追悼や未来へのメッセージが記されている

震災がなければ存在しなかったクラブ

2022年3月11日、福島・いわきの海は静かだった。波一つなく、春の日差しに海面はきらきら輝いていた。

案内してくれた地元生まれの白髪男性が言った。

「静かでしょ。いつもこんな感じですよ。11年前、この海から津波がやってきたなんて、今でも信じられないですよ」

震災の記憶と教訓を未来につなぐ「いわき震災伝承みらい館」。その建物の中庭には約250枚のメッセージが書かれた黄色いハンカチが飾られ、海風にはためいてた。

被害者の魂を鎮めるかのような幻想的な光景。はっと息をのんだ。

整備された防潮堤がどこまでも続く。南下すると、塩屋崎灯台のたもとには昭和の大スター、美空ひばりさんの名曲「みだれ髪」の歌碑があった。

1988年(昭63)に設置された歌碑、その脇にある小さな売店は、岬を回り込むようにやってきた津波にのまれなかった。

男性が続けた。

「私の知人の子どもですが、まだ小学校1、2年生だったかな。動物好きな子でね。津波から避難した時に、家にいた犬が心配でね、戻っちゃった。そこで津波にのまれた。両親は泣いても、泣いても、涙が枯れないって。悲しみは癒えないですよ。遺体のない葬儀にもいっぱい参加したけど、何とも言えない気持ちになりましたねぇ」

胸がしめつけられた。

同時に、この日の午前中に話を聞いたいわきFC社長、大倉智の言葉を思い出していた。

「電車は通ったけど、帰れない人、困難区域もあるし、いろんな事情をそれぞれが抱えている。そうすると、(復興へ)まだ道半ばだし、何も終わってない。復興の終わりって何、っていうのが、被災者でない僕ですら感じます」

3・11、午後2時46分。いわきFCは発生時刻にあわせ、活動拠点のいわきFCパークで静かに犠牲者への黙とうをささげた。

いわきFCパークのピッチ中央に置かれた追悼のユニホームと花

いわきFCパークのピッチ中央に置かれた追悼のユニホームと花

J1社長の職を辞し、いわきに来た男

今季からJリーグ参入。その58番目のチームとなったいわきFCは、Jリーグにあって唯一、「失意」から誕生したクラブなのだ。

米スポーツメーカー「アンダーアーマー」の日本での販売権を持つドーム社が、社会復興の一助としていわき市に雇用を生むための物流倉庫を建設。歩調を合わせるように15年12月、既にあった同名クラブの経営権を譲り受けた。

J1湘南ベルマーレの社長だった大倉は、同年代で交流の深かったドーム社代表、安田秀一の考えに共感した。周囲の反対を押し切り、J1クラブの社長という職を辞す。日本サッカー協会からも呼び出された。それでも意志を貫き、いわき市へとやってきた。

地震に津波、そして原発事故という未曾有の複合災害に見舞われた福島浜通り。そこでゼロからサッカークラブづくりに邁進した。

「WALK TO THE DREAM」のスローガンを掲げた。

16年春、県2部リーグからスタート。先行きの見えない中、1人、2人とファンが練習場に現れるようになった。観客のいなかった試合にある日突然、太鼓を持ったサポーターが登場した。

17年6月には物流倉庫のある場所に、人工芝のサッカーグラウンドやクラブハウスを構えた「いわきFCパーク」が誕生。人が集まる場所ができ、ここから一気に風向きが変わった。