オシムに捧ぐ 「走れ。走りすぎて死ぬことはない」元通訳は哲学継ぎ海外で代表監督に

サッカー日本代表監督も務めた名将イビチャ・オシム(ボスニア・ヘルツエゴビナ出身)が、5月1日に80歳で永眠した。「ライオンに襲われた野ウサギが逃げ出すときに肉離れしますか?」。機知に富んだ発言と卓越した指導力で、日本サッカー界に多くの「チルドレン」を生んだ。ジェフユナイテッド市原(現千葉)時代に通訳を務めた間瀬秀一(48)も、大きな影響を受けた1人。オシムとの出会いが、指導者人生の礎となっている。(敬称略)

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ジェフ市原(現千葉)でオシムの通訳を務めた間瀬。現在は愛知県の「ワイヴァンFC」で中学年代を指導する

ジェフ市原(現千葉)でオシムの通訳を務めた間瀬。現在は愛知県の「ワイヴァンFC」で中学年代を指導する

千葉時代の通訳、間瀬秀一

2002年、クロアチア・ザグレブに暮らす間瀬のもとに1通のメールが届いた。

「面接を行いたい。ぜひ会ってほしい」

1996年に日体大を卒業後、米国に渡り、グアテマラ、クロアチアなど5カ国でプレー。引退して現地の大学でクロアチア語を学んだ。そんな間瀬にジェフが白羽の矢を立てた。オシムを監督として招請するにあたり通訳を探していた。

欧州、特に東欧でオシムの名を知らぬ者はいなかった。現役時代は64年東京五輪にユーゴスラビア代表として出場し、日本との順位決定戦で2ゴール。監督としては90年W杯イタリア大会ではユーゴスラビア代表をベスト8に導いた。

クロアチアでもプレーし、その名声も知っていた間瀬氏にとって、オシムがアジアの極東・日本で監督になるという話は衝撃だった。同時に日本サッカーに転機が訪れる予感がした。その場に通訳として関われるチャンスがある-。オシムはボスニア語だが、クロアチア語とは日本でいう方言ほどの違い。理解するのに問題はなかった。

会場はオーストリア・グラーツにあるレストラン。オシムとその家族、ジェフの幹部との昼食が面接だった。いざ食事を始めても、オシムは一向に話そうとしない。隣に座った息子セルミルとひたすら会話し、そのまま終わった。

その夜、電話が鳴った。ジェフの幹部は「通訳として採用したい」。一言も直接話すことがないまま、タッグは結成された。

06年5月15日W杯日本代表発表 練習終了を待つファンのところへ巻誠一郎を促す千葉のイビチャ・オシム監督

06年5月15日W杯日本代表発表 練習終了を待つファンのところへ巻誠一郎を促す千葉のイビチャ・オシム監督

「こんな選手がいるんだな」視線の先には

03年1月29日、そろって韓国・南海に向かい、キャンプ中だったチームの練習を初めて見た。眼光鋭く見守るオシム氏が、にやりと口元をゆるませた。

「こんな選手がいるんだな」

最前線からプレスに走りまくり、体を投げ出してヘディングをする荒削りな大卒ルーキーの姿があった。のちに、06年W杯ドイツ大会のメンバーに選ばれた「オシム・チルドレン」の1人、FW巻誠一郎だった。こわもての指揮官がうれしそうに顔をほころばせたのを鮮明に覚えている。

毎日といっていいくらい怒られた。選手が練習をうまくこなせないと「なぜできない」と間瀬に厳しい言葉が飛んだ。

多色のビブスや複数のボールを使ったトレーニング。メニューは独特で複雑だった。プレッシャーと疲労から1年目のシーズンは2回倒れて点滴を打ったほど。朝の病院にいると、別のコーチからの電話が鳴った。「午後の練習は来られるんだろ?」と言われ、そのまま練習場に向かったこともあった。

食らいつきたい一心だった。なにより、クラブが目に見えるスピードで強くなっていた。J1で中位に“慣れ”ていたチームに、就任早々「なぜ優勝を目指さないのか」と雷を落とした。

鋭いプレス、次々と選手が前線へ飛び出す攻撃サッカーを染み込ませ、強豪チームへと変貌した。1年目の03年シーズンから優勝争いに食い込み、3位となった。05年11月にはクラブ初タイトルとなるナビスコ杯優勝を果たした。

「何より、成長を感じられていた」