岡田監督に学ぶ 「お前」呼ばわり屈辱の過去を糧にW杯16強導いたメンタル

10年ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会への出場権は、イビチャ・オシム監督の後を受けた岡田武史監督(当時51)に託された。09年6月の出場権獲得後は試練が続く。欧州、アフリカの強豪と強化マッチを組むが、結果が伴わず国内は批判がうずまいていた。大会直前まで、岡田監督はチーム作りと、自分のメンタルにひたすら向き合う日々だった。

サッカー

W杯南アフリカ大会1次リーグのオランダ戦で、大声で指示を出す岡田監督。奥はDF駒野(2010年6月19日撮影)

W杯南アフリカ大会1次リーグのオランダ戦で、大声で指示を出す岡田監督。奥はDF駒野(2010年6月19日撮影)

仰天したオランダでの川柳事件

オランダ代表に大敗してショックを受けないか。そう質問された岡田武史監督(当時53)は、いきなり川柳を詠み出した。

すでにワールドカップ(W杯)4大会連続(02年日韓共催を含む)出場を決めていた2009年9月、オランダ(ヘンスヘーデ)での試合前の記者会見場だった。オランダのメディアも数多く集まり、極東から来た代表チームのコーチ(監督)に興味津々だった。

珍しく落ち着いた雰囲気の岡田監督は堂々と話しだした。「釣れたでいい、釣れないでまたいい、春うらら、という川柳があります」。

オランダで川柳かと、あっけにとられた。

両国メディアのリアクションを予期していたかのように言葉を続けた。「何かの本で読みました。作者は知りません。今度、調べておきますよ。そして、これは禅で言うところの無、無心のひとつとして記憶しています」。ずいぶんとパンチの効いた公式コメントだ。「試合がどうなるか分かりませんが、その時に考えればいい。不要な心配で、今の勢いを止めることはないと思います」。

世界列強の中では日本はサッカー弱小国。そのコーチとしては、卑屈さを感じさせず、日本人の国民性を感じさた。スーパースターのジーコや、名将オシムならいざ知らず、欧州では無名の岡田監督が存在感を放った瞬間だった。

当時のオランダ代表は世界ランク3位、日本は40位。そして、ランキング以上の圧倒的な実力差を誰もが感じていた。世界的なストライカー、ロッベンやファンペルシーがいるオランダ代表ははるか格上の相手だ。その強国にアウェーで挑む。これこそが岡田監督には大切だった。そこを出発点に、本大会までのビジョンを描いていた。

それまでの岡田監督は、アジア予選の重要な試合になればなるほど緊張感を高め、異様な雰囲気で会見に臨んでいた。W杯南アフリカ大会のアジア3次予選では、バーレーン戦前日の公式会見にこわばった顔で着席すると「ベストを尽くします」とだけ話し、あとは無表情で沈黙ということもあった。

言葉にはとげがあり、なるべく本音を隠そうとする。追い詰められ、感情をコントロールできていないように見えた。しかし、オランダ遠征での岡田監督は、本大会出場も決め、既に腹を決めたかのようだった。

オランダとの親善試合の後半、FKのキッカーを相談する左から中村、遠藤、本田、長谷部(2009年9月5日撮影)

オランダとの親善試合の後半、FKのキッカーを相談する左から中村、遠藤、本田、長谷部(2009年9月5日撮影)

本田のFK直訴が潮目に

試合は0-3の完敗。後半に3発を浴び、たたきのめされた。体の強さも圧倒的で、中村俊輔のFKくらいしか見せ場は作れなかった。明らかな力の差があった。

しかし、それで良かった。むしろ、W杯欧州予選の中断期間で、調整の意味合いをあり主力が出るピンポイントのタイミングで敵地でマッチメーク。目的は達成していた。

欧州の強国と試合をすることで学べることがある。パススピード、3人目から先の連動性ある動き、シュートレンジの広さと精度、フィジカルの強さ、試合運びの巧みさ、GKの守備範囲の広さとフィールドパスの正確さ、オフ・ザ・ボールの動き。すべてが生きた教材だった。

日本代表は、6月のアウェー・ウズベキスタン戦で味わった本大会出場決定の余韻を断ち切り、ここからW杯1次リーグ突破へと切り替え、混乱の9カ月へと突入して行く。

そして、オランダ戦完敗の中には、日本代表変遷を語る上で見逃せないシーンがあった。

入社最初の担当はプロレス。記者31年を通じ、もっとも恐ろしかったのは、まだ25歳の新人記者として、ターバンを巻きサーベルをくわえたタイガージェットシンに追い掛けられたこと。
その後はプロ野球で巨人担当のコメント取りにはじまり、日本ハム、ヤクルト、横浜、西武を担当。総務で2年間、就業規則を学んだ後、スポーツ部で大相撲、サッカー担当。W杯南アフリカ大会では岡田ジャパンを取材。
デスク業務を経て現場記者に復帰して6年目。高校野球の地方大会取材に燃えるアラ還記者。