【爆走王の箱根駅伝〈上〉】帰ってきた名物男・徳本一善「途中棄権」抱えた20年

かつて茶髪、サングラス姿で箱根駅伝を疾走したランナーがいた。法政大学の徳本一善。駿河台大の監督に就任して10年、再びハコネに帰ってきた「爆走王」の指導と生き様を紹介する。上下編の上。(22年1月6日配信。年齢、所属など当時)

陸上

箱根駅伝予選会を突破し、初出場を決めた駿河台大の徳本一善監督=2021年10月23日

箱根駅伝予選会を突破し、初出場を決めた駿河台大の徳本一善監督=2021年10月23日

駿河台大を初出場に導く

22年の箱根駅伝、初出場で総合19位で終えた駿河台大・徳本一善監督(42)は「誰よりも箱根にとらわれた人生」と感じている。

1月3日の復路。駿河台大は往路最下位から1つ順位を上げ、たすきをつなぎきった。繰り上げスタートなし。堂々たる走りっぷりだった。

徳本監督は、法大時代、茶髪とサングラス姿がトレードマークだった。「ビジュアル系ランナー」「爆走王」と呼ばれ注目を集めた。エースとして迎えた2002年正月の最後の箱根では、花の2区で、途中棄権した。それまでの強気な発言もあって、批判にもさらされた。失敗を糧にし、悔いのない人生を生きる-。あの時立てた誓いを今、実践している。

01年の箱根駅伝、2区を走った徳本一善は3区竹崎重紀へタスキ渡し

01年の箱根駅伝、2区を走った徳本一善は3区竹崎重紀へタスキ渡し

◆徳本一善(とくもと・かずよし)1979年(昭54)6月22日、広島市生まれ。美鈴が丘中1年で陸上を始め、沼田高から法大へ進学。01年ユニバーシアード1万メートル3位。箱根駅伝では1年が1区10位、2年が1区1位、3年が2区2位。大学NO・1ランナーとして出場した4年の2区で途中棄権した。卒業後、日清食品に入社。2012年4月より駿河台大の監督に就任。現役時は173センチ、58キロ。

「忖度なしに楽しむ人生」

初の箱根。徳本監督は自らデザインした駿河台大のオリジナルパーカーやTシャツを着用し、事前会見や本番に臨んだ。日本を代表するスニーカーショップのブランド「atmos」とのコラボ商品だった。これ以外にも、仕掛けた駿河台大コラボ商品は幅広い。地元の老舗パン店とコラボしたクリームあんパンやジェラートとスイーツまである。

最近は、駅伝部のマスコットキャラクターを有名デザイナーに依頼して完成させた。いずれもターゲットは中高生。10月の箱根予選会を8位で通過し初出場を決めた後、コラボを次々と着地させた。

「いかにウチの大学、駅伝部の魅力を伝えられるか。監督就任から10年、頭の片隅にずっとあったので、予選会通過後にすぐに動きました。常に考えて仕掛けていかないと。千載一遇のチャンスですから」

箱根駅伝も、大学や駅伝部のブランド確立のチャンスと捉えていた。

「僕の武器は発想力。僕の役割で楽しみ尽くしてやろうと思っています。忖度(そんたく)なしに楽しみ、面白いと思って行動に起こす人生。そういった流れをずっとやっていたら、こんなになっちゃった」

現役引退直後の12年4月、駿河台大の監督に就任した。すぐ有力選手獲得に向けて全国を行脚した。無名校だけに、選手勧誘には苦労した。「どこに大学があるの?」とさんざん聞かれた。ある高校の監督に、大学案内パンフレットを目の前で捨てられたこともあった。

それでも、1度も心が折れることはなかった。

「『お前なんか無理だ』と言う監督もいましたが、5年後くらいから『お前のことを認めてやる』という先生も少しずつ増えました」

高校駅伝の名門・西脇工には「練習を見せてください」と何年も通い続けた。足立幸永監督から「お前を応援してやる」と協力を約束され、今も交流を続けている。

無名だった駿河台大の監督を引き受けた理由は明快だ。

「もちろん大丈夫かと思いましたよ。どうせ監督をやるなら、法政に帰りたいと思ってました。(駿河台大の前理事長と)ウマがあったんです。この人と一緒にやったらおもしろそう、ただそれだけ(笑い)」

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スポーツ

近藤由美子Yumiko Kondo

Aichi

愛知県名古屋市生まれ。98年入社。経理部を経て02年に文化社会部。
芸能担当として15年以上、音楽、映画、テレビと全担当を経験。音楽担当時代、08年から16年1月のSMAP解散騒動直後までジャニーズ担当。
19年2月から社会担当として事件、政治、東京五輪を取材。
21年4月にスポーツ部。同年11月からゴルフ担当。22年春から本格的にツアー取材を行う。同年夏スコットランド選手権で古江彩佳の米ツアー初Vを取材。