【ブッチャーの真実〈1〉】あっフォークだ!プロレス史に刻まれた凶行、その証言

日本プロレス史上最も有名な外国人レスラーが、『黒い呪術師』アブドーラ・ザ・ブッチャー(81)だ。1970~2000年代にかけて、額から鮮血を流しながら相手をフォークで突き刺す凶悪ファイトで大暴れ。希代のヒール(悪党)レスラーでありながら、なぜか絶大な人気を誇った。いったいブッチャーとは何者であったのか。名勝負に隠された真実から意外な素顔まで、関係者の証言をもとにたどる。第1回は「フォークの衝撃」。

プロレス

ブッチャーの代名詞ともなったフォーク攻撃。肉を突き刺す感触が伝わってくる分、なんとも生々しい

ブッチャーの代名詞ともなったフォーク攻撃。肉を突き刺す感触が伝わってくる分、なんとも生々しい

1977年12月15日蔵前国技館での惨劇

高々と振り上げた拳に、銀色に光る凶器が握られていた。

「あっ、フォークだ!」

試合を実況していた日本テレビの倉持隆夫アナウンサーが絶叫した。

アブドーラ・ザ・ブッチャーは右手に握り締めたフォークを、テリー・ファンクの右腕に突き刺した。悲鳴を上げるテリーの二の腕は肉が裂け、流血で右足まで真っ赤に染まった。それでもブッチャーは何のためらいもなく、フォークでテリーの右腕を突き刺し、肉をえぐり続けた。

プロレスとはいえ、あまりに残酷で凄惨(せいさん)なシーンに、1万2000人の超満員で埋まった会場は、怒号と悲鳴に包まれた。ジュースの缶やみかんなど客席からありとあらゆる物が、次々とリングに投げ込まれた。

1977年(昭52)12月15日、東京・蔵前国技館で行われた全日本プロレスの世界オープンタッグ選手権の最終戦。

兄弟とも世界最高峰のNWA世界ヘビー級王座に就いたザ・ファンクス(兄ドリー・ファンク・ジュニア、弟テリー・ファンク)と、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークの『史上最凶悪コンビ』の一戦。ともに勝ち点12で首位を並走。勝者が優勝(賞金1000万円)という大一番だった。

全日本のレフェリーとして半世紀近いキャリアを誇る和田京平氏(67=現全日本名誉レフェリー)は、この試合は特に印象に残っているという。「フォークを凶器で使った最初の試合。遠くから見ていたけど、インパクトが強かったね。あれが許されるんだ、許していいんだと」。

当時、まだ若手レスラーだった渕正信(68)も「驚いたよね。戦慄(せんりつ)でした。周りのレスラーもびっくりして、お客さんからも悲鳴が上がっていた」と振り返る。

東京スポーツの記者だった門馬忠雄氏(84=現在はプロレス評論家)は会場の2階席でこのシーンを目撃した。「センセーショナル。あり得ないよ。よくあんなアイデアが出てきたもんだなと感心したね」。

観客はもちろん、長年、プロレスに携わり、数々の激闘を見てきた人たちにとっても、ブッチャーのフォークは衝撃的だった。

プロレスは5カウント(5秒)以内であれば反則行為が許されている。相手を殴り、かみつき、鉄柱にたたきつける。五寸くぎにビール瓶、サーベルにパイプイス……長い歴史の中で数々の凶器が使われた。しかし、ブッチャーのフォークは、そのどれよりも人々の恐怖心をあおった。

それはフォークが誰もが日常的に使っている食器だったからだ。食事のときに肉を突き刺すあの尖ったフォークで、人の二の腕を突き刺している。非日常のプロレスの世界が、フォークによって日常とつながった。グサリと肉を突き刺すあの感触は、誰もがリアルに体験している。想像力がかきたてられるぶんだけ、生々しく、恐怖も大きくなった。

1988年入社。ボクシング、プロレス、夏冬五輪、テニス、F1、サッカーなど幅広いスポーツを取材。有森裕子、高橋尚子、岡田武史、フィリップ・トルシエらを番記者として担当。
五輪は1992年アルベールビル冬季大会、1996年アトランタ大会を現地取材。
2008年北京大会、2012年ロンドン大会は統括デスク。
サッカーは現場キャップとして1998年W杯フランス大会、2002年同日韓大会を取材。
東京五輪・パラリンピックでは担当委員。