街に勇気の灯を…8連覇に挑んだ平尾誠二率いる神戸製鋼 知られざる物語

1995年1月17日、阪神淡路大震災。ラグビー界にとっては、神戸製鋼が日本選手権7連覇を達成した2日後の出来事だった。28年目となった日に、今は亡き平尾誠二をよく知る藪木宏之(元神戸製鋼SO、元日本ラグビー協会広報部長)に、当時を聞いた。知られざる物語-。(敬称略)

ラグビー

〈元神戸製鋼SO藪木宏之が回顧〉

神戸製鋼時代の平尾(右)と藪木。2人は師弟関係だった(藪木氏提供)

神戸製鋼時代の平尾(右)と藪木。2人は師弟関係だった(藪木氏提供)

薄れぬ記憶…95年1月17日午前5時46分阪神淡路大震災

どれだけ長い歳月が流れても、あの日の記憶は薄れることはない。

午前5時46分。

大震災は神戸の街も襲った。

まだ外は暗い。

大混乱の中で、震災発生から1時間半ほどが過ぎた午前7時すぎに藪木(写真)の携帯電話が鳴った。

「藪ちゃん、どうや? 大丈夫か?」

ライフラインは切断され、電話もつながりにくい。

おそらくは、何度もかけ続けていたのだろう。

その声は師弟関係にあり、神戸の自宅にいる平尾からだった。

「とりあえず、今から大阪に向かおうと思っています」

「おお、そうか。それなら、着いたら連絡をしてくれ」

誰よりも仲間のことを気にかける。

それが平尾誠二という人だった。

「僕は灘区の自宅にいました。

結婚して1年目。たまたま嫁さんは、カゼをひいて実家に帰っていたんです。

大きな揺れで跳び起きた。

家は小高いところにあって、山の中腹から下に降りたら、とんでもない惨状になっていた。

嫁さんのいる大阪に向かおうと、車を走らせたんです。

まだ携帯電話がそれほど普及していなかった時代でしたが、たまたま平尾さんと僕は持っていた。

そんな時に、電話がかかってきたんです」

95年阪神淡路大震災で美しい港町、神戸は大きな被害を受けた

95年阪神淡路大震災で美しい港町、神戸は大きな被害を受けた

携帯で平尾と連絡、経過とともに伝わる惨状

阪神高速は崩壊。

建物が崩れ、いたるところで道は寸断されていた。

通れる道はどこも大渋滞している。

いつもなら大阪までは高速道路を使えば30分、一般道でも1時間もあれば着く。

通れる道を探し、迂回(うかい)しながら、大阪まで7時間以上かかった。

ようやくたどり着いても、気がかりなことがあった。

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編集委員

益子浩一Koichi Mashiko

Ibaraki

茨城県日立市生まれ。京都産業大から2000年大阪本社に入社。
3年間の整理部(内勤)生活を経て2003年にプロ野球阪神タイガース担当。記者1年目で星野阪神の18年ぶりリーグ制覇の現場に居合わせた。
2004年からサッカーとラグビーを担当。サッカーの日本代表担当として本田圭佑、香川真司、大久保嘉人らを長く追いかけ、W杯は2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会、ラグビーW杯はカーワンジャパンの2011年ニュージーランド大会を現地で取材。2017年からゴルフ担当で渋野日向子、河本結と力(りき)の姉弟はアマチュアの頃から取材した。2019年末から報道部デスク。
大久保嘉人氏の自伝「情熱を貫く」(朝日新聞出版)を編集協力、著書に「伏見工業伝説」(文芸春秋)がある。