「龍、チャレンジやで…」平尾誠二“最後の教え子” 10年後、たどり着いた約束の場所

「ミスター・ラグビー」と呼ばれた平尾誠二さんが託した夢があった。他界する3年前、1人の少年を指導した。それがきっかけとなって少年はラグビーを始め、新国立競技場を目指した。あれから10年-。彼は約束の場所に立ち、そこでユニホームを脱いだ。

ラグビー

<「伏見工業伝説」益子記者が送るラグビーStory>

中学1年の春、平尾さん(右)にパスを投げる際の握り方を教わる(渡邉美香さん提供)

中学1年の春、平尾さん(右)にパスを投げる際の握り方を教わる(渡邉美香さん提供)

平尾さんが亡くなる3年前、1本のパスに導かれ

1枚の写真が残されている。

そこに映る平尾さんは真剣で、髪の短い少年にボールの握り方を教えている。

2013年5月11日。

少年は中学に入ったばかりで、ラグビー部に仮入部をしていた。

本当にラグビーをしようか、それとも他の競技の方がいいだろうか…。まだ迷っていた。

そんな時期に撮られた写真だった。

少年の父は20歳の頃から平尾さんと知り合いで、その日はゴルフに出かけた帰りだった。

最初は遊びのつもりだったのかも知れない。

5分だけのはずが10分になり、30分になった。

徐々に熱が入る。

「もっと広いところでやろうか」

上着を脱ぐと、本格的な指導が始まった。

「いい選手はな、低いパスは膝を使って、こうやってボールを受けるんやで」

「うまくなったやないか。さっきと全然ちゃう。センスあるやんか」

少年は純粋なまなざしで耳を傾けている。

ただ、その人が日本ラグビー界において、どれほどの足跡を残してきた人なのかは、その頃は知る由もなかった。

「ラグビーのうまい、パパのお友達」

そう思っていたのだという。

この日から3年後、平尾さんは闘病生活に入り、この世を去った。

その少年こそが“平尾誠二最後の教え子”となったのである。

1本のパスに導かれてラグビーを始め、平尾さんの夢を追うようになる。

「新国立競技場で、ラグビーを…」

これは、10年の歳月をかけて約束の地へとたどり着いた1人のラガーの物語である。

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編集委員

益子浩一Koichi Mashiko

Ibaraki

茨城県日立市生まれ。京都産業大から2000年大阪本社に入社。
3年間の整理部(内勤)生活を経て2003年にプロ野球阪神タイガース担当。記者1年目で星野阪神の18年ぶりリーグ制覇の現場に居合わせた。
2004年からサッカーとラグビーを担当。サッカーの日本代表担当として本田圭佑、香川真司、大久保嘉人らを長く追いかけ、W杯は2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会、ラグビーW杯はカーワンジャパンの2011年ニュージーランド大会を現地で取材。2017年からゴルフ担当で渋野日向子、河本結と力(りき)の姉弟はアマチュアの頃から取材した。2019年末から報道部デスク。
大久保嘉人氏の自伝「情熱を貫く」(朝日新聞出版)を編集協力、著書に「伏見工業伝説」(文芸春秋)がある。