宇都宮G2ウィナーズカップは清水裕友の優勝で幕を閉じた。

初めて宇都宮を取材で訪れたのは02年のG2共同通信社杯。前検の仕事を済ませ帰ろうとした時、そのニュースが飛び込んできた。当時の豊橋市長が競輪事業撤退を表明したのだ。慌てて取材して紙面にねじ込んだ。前検日からへろへろになった。今回は、その回顧にお付き合いください。

豊橋競輪存続の裏には選手会、競輪場従事員、中部自転車競技会(現JKA)ら関係者の多大な努力があった。議会への陳情はもちろん、駅前でのティッシュ配りや署名集めなど、やれることは全てやった。記者も取材に追われ、議会も傍聴した。ある市議は「文化都市豊橋にギャンブルはそぐわない。競輪廃止は賛成です。ただ、従事員103人(当時)の雇用は守ってもらいます」と市長に訴えていたが「むちゃくちゃやん」と思ったものだ。

結果的に市長も翻意し、競輪は存続されることになった。大レースと縁がなかった豊橋が直後にG2ふるさとダービーを招致できたことも、業界挙げての後押しがあったからだろう。今ではミッドナイト競輪も始まり、豊橋は盛況だ。

もし、あのとき撤退していれば、深谷知広は現れていなかったかもしれないし、金子貴志のGP優勝もなかったかも…。そう思えば、つくづく競輪場があることの意味を感じさせられる。


深谷知広
深谷知広

同競輪場で指導員を務める山田二三補は「存続に向けてみんなが一丸となりましたね。それまでファンサービスに関心がなかった選手も、進んでイベントに参加するようになった」と話す。まさに雨降って地固まるだ。