古き良き競輪の体現者がまた1人バンクを去った。茨城の闘将・朝秀忠(49)が引退を決意した。

朝秀忠は引退の意志を固め、19日に選手手帳を返納した
朝秀忠は引退の意志を固め、19日に選手手帳を返納した

競輪学校(現選手養成所)68期を在校2位で卒業し、91年8月にデビュー。翌92年にS級に昇格してからは、恐れ知らずのマーク屋として全国に名を売っていった。

朝秀が駆け出しのころ、茨城のマーク屋は他地区に恐れられていた。師匠の内田幸男(37期=12年1月引退)や、清水孝志(29期=08年9月引退)といった妥協のないマーク屋たちが各地で暴れ回っていたからだ。

「決して押しつけられたわけじゃない。先輩たちの背中を見て、競輪とはこういうものなんだと覚えたんです」。誰が相手でもぶれない競走スタイルは、別線をたびたび嫌がらせた。

順風満帆に出世していくと思われたが、S級1班には1度も上がれなかった。当時は、4400人もの選手がいる中でS級1班は130人のみ。非常に狭き門だったこともある。そしてもう1つ、競輪選手としては致命的な故障を抱えていた。

「生まれつき膝蓋(しつがい)骨分裂があった。年々悪くなっていき、5年前には完全に膝がぶっ壊れてしまいました」

大学病院の医師から「手術しないと治らない」と宣告されたが、この時すでに44歳。長期の離脱は選手生命に関わるからと、手術を断念。「ごまかしごまかし走っていたけど、発走機から出るのもやっとの状態。昔は1番車が好きだったのに、最近はSが取れないから1番車が嫌だった」。

ルール改正、7車立ての導入、スピード化…。それらの全てが故障を抱えたベテランのマーク屋にはマイナスに働いてしまう。この数年は成績の急降下に歯止めがかからなかった。

朝秀にはずっと守ってきた信念がある。「選手はお客さんのために走るもの。自分の生活のために走るようになったら終わり。ギャンブルの駒なんだから、お客さんに車券を買ってもらって走れているんです」。思ったようなパフォーマンスができなくなってからは、信念と現実のはざまで苦しみ、ついに引退という決断に至った。

ラストランとなった弥彦(15~17日)開催中は、誰にも引退を明かしていなかった。帰郷した翌日に日本競輪選手会の茨城支部に選手手帳を返納。そこで初めて同県の選手たちは引退を知ったと言う。

25日、朝秀を慕う戸辺裕将、松田優一、芦沢辰弘、吉沢純平らが取手バンクに集まった。

最後の周回練習では弟子の山下渡が朝秀忠を追走した
最後の周回練習では弟子の山下渡が朝秀忠を追走した

最後の練習で弟子の山下渡が師匠の後ろを固めて黙々と周回を重ねるシーンは、仲間たちの胸を打った。

朝秀忠の意志を今後は弟子の山下渡(右)や孫弟子の梁島邦友(左)が受け継いでいく
朝秀忠の意志を今後は弟子の山下渡(右)や孫弟子の梁島邦友(左)が受け継いでいく

孫弟子になる梁島邦友は、同時参加の松阪最終日に朝秀と初連係。最後に選手としての心構えを教え込んでもらえた。

「7車立てにもいろいろ気付く部分はあったが、やっぱり競輪は9車のが面白い。どのようにスタイルが変わっても、後輩たちにはお客さんのために一生懸命走ってもらいたいですね」

最後の最後まで「お客さまファースト」を貫いた姿は、真のプロフェッショナル。その背中に憧れ、多大な影響を受けた選手は多い。自身が勝負服を脱いでも「朝秀イズム」は、しっかりと後輩たちに伝承されていく。【松井律】