2度のKEIRINグランプリ(GP)を含むGP&G1で8冠の村上義弘(48=京都)が5日、東京・板橋区の日本競輪選手会で引退会見を行った。一問一答は次の通り。

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--どうして日本一の選手になれなかった、と思うのか

村上義弘(以下村上) 自分が理想とする競輪選手は速くて、うまくて、強くて、今日より明日、自分に満足しない、常に向上心を持つ。気持ちの分だけはしっかり持てたと思うが、自分が圧倒的に強かったわけではない。自分が理想とするところには届かなかった。もっと強くなりたかったです。

--引退を決めたのは

村上 前回の松阪(F1)の時に出走表を見て、連対率が0%だった。こんなことは初めて。初日、2日目も駄目で…。最終日に自力で動いて番手に飛び付いて1着だったが、久しぶりに自分らしい、弱気にならずにレースも組み立てられた。連に絡めなくてファンをがっかりさせてたのが、1つ納得してもらえたかな、納得してもらいたいなと。これ以上、ぶざまなレースを見せ続けても良くない。村上のレースを、負け戦ですけど、さすがだな、と思ってもらえるかなと。帰りの車の中で思った。

--平安賞(向日町G3)を走らず引退となったのは

村上 迷いはあったが、向日町競輪は自分が育った場所。誰よりも通った。最後に走ることも考えたが、おそらくその気持ちで走ると、レースに何らかの影響を与える。それを見せてはならない、選手仲間に悟られてはならない。自分は走るべきではないと思った。自分がいることで展開も変わってくると思うので。みんなに託して、と判断した。

--引退した今の心境は

村上 競輪を走れない、興奮とか場内の一体感とか味わえないのは寂しいが、本当に燃え尽きたやりきったというか。デビューしたころに座右の銘に掲げていた完全燃焼。本当にそういう気持ち。今後は仲間を応援していきたいなと思う。

--奥さまやご家族には。思い出のあるレースは

村上 家族、妻には松阪から帰ってきて「もうこれを最後にする」と伝えた。最初はもちろん驚いていた。妻ももちろん娘も…(涙をこらえしばらく絶句)本当に何も言わずお疲れさまでした、と。それが何よりうれしかった。印象に残っているレースは本当に数々ありすぎて、何がとは選べない。今こう思い返しても、いろんな場面が自分の頭に駆け巡っています。

--引退発表した夜にどう思ったか。翌朝どう思ったか。

村上 感覚的には本当にホッとしたんだと思う。14歳から競輪選手を夢見て、自転車に乗り始めて、本当に競輪のこと、練習のこと毎日そればかり考えていた。決断して1カ月弱だが、今でも競輪のこと考えてしまう。寝る時に体が痛いと思っても、もう痛くてもいいな、と。1つ1つ荷物を降ろしてもいいなと思えた。朝起きても、反射的に練習に行こうとして「あ、練習いかなくていいんだ」と。情けないことに、子どもが学校から帰っても、まだパジャマでいて。そういうこともなかったから、不思議なこと。少しゆっくりして家族孝行できればなと。競輪以外のことを考えたことがなかったので。子どものころは恵まれた環境じゃなかった。競輪のおかげで人生を救われて…。これからも競輪に感謝し続けていきたい。僕の人生には競輪しかない。

--引退後は自転車に乗ったか

村上 自転車に乗ったことはない。こんなに自転車に乗らないのはもちろん初めて。けがや病気もあったが、中学生ぶりに自転車に乗らない生活を楽しんでいる。楽しんでいる?(苦笑)

--選手の中にも憧れている選手はたくさんいた

村上 本当に、僕は人に恵まれた競輪人生を送れた。先輩、仲間、だんだん後輩が多くなって、後ろ姿を見せることが僕を育ててくれた先輩たちへの恩返しだと思う。(引退を)電話で話した後輩も、今でも話していない後輩もいる。直接話したいが、話すと自分が先に泣いてしまいそうで、もう少し落ち着いてから話したい。

--恵まれた体格ではない中でも、高いレベルでは走り続けられた要因は

村上 自分では体のことはそんなに考えたことはないが、自分の理想とする、速くてうまくて強い、負けない選手。それを目指して、負けてばかりだった。ただただ、その日を一生懸命頑張ってきたら、気が付けば28年たっていたという感じ。

--弟の博幸さんからのメッセージを受けて

村上 博幸は、僕がいて本当につらい思いをしたと思う。兄弟なので強く思う半面、強く当たることも多かった。博幸が自転車乗り始めてから…25年か…。その間、敬語で話すことになって、敬語を使わせることになって、兄弟であって兄弟でない部分…。自分が引退して、立場が変わって、昔のように兄弟に戻れる。

--一番のファンになる?

村上 そうですね。本当に競輪選手として家族としておふくろを喜ばせてくれるように、そこは博幸に託します。

--理想とする競輪とは。責任を持って走る意味とは

村上 両方共通する答えになるが、僕ら競輪選手は他のプロスポーツと違って、直接ファンの思いをお金に賭ける。もし、自分がお金をかける立場なら、自分の全てをかけて(戦って)ほしい(と思う)。勝てばうれしいが、負けても、もし自分が走ればこう戦う、その結果、村上義弘が負ければ仕方がないなと。負けても納得してもらえる、一緒に走る仲間、敵であってもそう。勝負だから何をしてもいいわけじゃない。それぞれが勝負に対して納得できるレースができる、ということを考えていた。

--検車場では非常に険しい表情、雰囲気があった

村上 本当に、ここにおられる方々にご迷惑をおかけしました。すみませんでした(笑い)。その緊張感を持ち続けないと、自分の心が維持できない、少しでも緩めると僕には戦えなくなる弱さがあった。その弱さを、勝負の世界である以上、表に出してはならない。そう強く思うことが、みなさんにご迷惑をかけたんだと思う。

--バンクに別れは

村上 最後の向日町を走れなかったので、バンクの神様にずっと感謝です。ずっとそこにいたかった。30年以上お世話になったバンクの神様にお礼と、一緒に戦ってくれた自転車に…。今、少しずつ整理している段階ですけど。

--これまでで一番燃えたレースは

村上 プロとして、勝負師としてターニングポイントになったのは、初めてG3を優勝した時。松本(整)さんと一緒に走った(00年の)平安賞。松本さんは本当に公私にわたってかわいがってもらった。ゴール前で自分を抜くために本気で体をぶつけにきた時。その時までの甘さと、その後の自分の競輪生活、競輪人生の宝物になった。

--これからの競輪について、どう期待するか。

村上 それぞれの時代、時代に素晴らしい選手がいて、素晴らしい仲間に囲まれて。それぞれのファンがいて…。ファンが思いを乗せられる特殊な競技。選手もしっかり責任を持って、ファンも一体となって自分が走ってきてよかった、勝った時に一緒に喜んでくれる。あの瞬間をどんどん作っていってほしい。競輪はそうなっていくと思う。