5日、益城町総合体育館。熊本地震で最も被害が大きかった地域にある、最大級の避難所の敷地内を、大柄な男が走っていた。

 「こどもの日だけん、ケーキ持ってきたよ!」。そう呼び掛けると、発泡スチロールの箱を開けて、子供たちを手招きした。

 さまざまなフルーツが彩るケーキに、子供たちが歓声を上げる。そして大人たちも、別の意味での歓声を上げた。

 「巻さんやん、巻さん!」。ビニール手袋をはめ、ケーキを配ろうとしていたのは、J2熊本FW巻誠一郎(35)だった。


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 「子供のような心を持った大人も、食べてくださいね!」。巻の呼び掛けに「あら、じゃ私も」と年配の女性が列に加わった。

 巻はさらに「ここは空調なくて熱くなるけん、熱中症予防!」と言って、お年寄りに塩分補給できるあめを配って回った。

 ちょろちょろとついて回る子供が、無邪気に言う。「サインほしいな」。すると巻は「ユニホームあるよ!」と応じる。

 「クルマにあるけん、取ってくるよ!」。そして敷地内を走り、レプリカユニホームを手に戻ってくると、サインをして小さな手にもたせた。

 「僕もほしい」「あるよ!」「塩あめほしいな」「あるよ!」。クルマに走れば、水のいらないシャンプーもある。歯ブラシも、青汁もある。手で簡単に発電できるライトもある。

 「サッカーやりたい」にも「あるよ!」。ボールにビブス、空気を入れて膨らませて使う小型のゴールまである。いつでもどこでも、ミニゲームができる。

 誰かが「あるんだ」とつぶやいた。ドラマ「HERO」の一幕を思い出した。田中要次さん演じるバーのマスターさながらに、巻は次々と求めに応じていく。


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 なぜ、なんでも「あるよ」なのか。体育館を出た巻は「あれがドラえもんのポケットです」と乗用車を指さした。後部座席からトランクにかけ、ぎっしりとモノが詰め込まれている。

 巻は1日に避難所を3、4カ所回ることもある。そして被災者と話をするたび「これがあったら便利なんだろうな」というものが、脳裏のリストに加わる。

 熊本市東区に、支援者から間借りしている倉庫がある。全国から巻宛てに送られてきた支援物資が蓄積されている「基地」だ。

 巻はここに立ち寄ると、新たにリストに加わった物資を見つけ出し、乗用車に詰め込む。これを繰り返した結果、後部座席はドラえもんのポケットになった。

 ちなみにこの乗用車は、巻本人のものではない。「自分のクルマよりモノが積めるので、妹から借りているんです」。黄緑色の小型車。道理でかわいらしい。


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 チームは2日から、全体練習を再開している。開始は9時半。11時過ぎには終了する。

 汗だくになった巻は素早くシャワーを浴び、身体のケアを済ませると、段ボール箱を抱えて乗用車に飛び乗る。みんなにプレゼントできるサッカーグッズを持って、午後からの避難所めぐりに向かう。

 道すがら、昼食を食べる。注文したメニューが届いても、巻は箸を取らなかった。ずっとメールやLINEを打ち続けている。

 「ごめんなさい。練習中にメールがたまってしまうんです。先に食べていてもらってもいいですか」。

 全国からの物資提供の申し出。避難所からのサッカー教室の依頼。支援活動についての打ち合わせは、一日中ひっきりなしに続く。


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 人のために身体を張る。人のために走り続ける。プレースタイル通りの人柄。巻は昔からそうだった。

 07年冬。当時千葉に所属していた巻から「書いてほしいことがあるんです」と相談されたことがあった。

 「今日、クラブとの契約交渉の席で、移動用の公式スーツをつくってほしいと要望しました」。

 05、06年とナビスコ杯を連覇した千葉だが、移動時はそれぞれが私物のスーツを着ていた。バラバラで、見栄えはよくなかった。

 「ビシッと全員そろっていた方が、クラブのステータスも上がる。普通はどこかの企業にご提供いただくんでしょうけど、そのためにはうちが公式スーツを必要としていることを、世間に広めた方がいいと思うんです」。

 当時の千葉は日本代表に多くの選手を送り出し、多くの選手がステップアップのために移籍を考えている時期だった。

 交渉の焦点も、個人的な契約条件になる。それはとても自然なことだ。しかし巻だけは、自分のことを後回しにして、公式スーツ導入を訴えた。

 これが実り、翌シーズンからクラブ10年ぶりに、公式スーツが復活した。巻は「記事のおかげです。ありがとうございます」と頭を下げた。無論、本人の努力のたまものだった。


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 怒りをあらわにするのもまた、人のためだった。巻は一時期、大半のマスコミに対し、口を閉ざしていた。

 06年にオシムジャパンが立ち上がった当時のことだった。「みんなにきちんと話した方がいい」と勧めたが、譲らなかった。

 「だって、みんな千葉ジャパンとかって書くでしょう? 選手をバカにしすぎですよ」。

 オシムさんは古巣千葉の選手を、次々と代表デビューさせていた。彼らの潜在能力の高さに加え、オシム流を熟知するからだが、「縁故採用」というような批判もあった。

 先代ジーコ監督のもと、すでに06年W杯にも出場している巻は、批判を受ける側の選手ではなかった。しかし、同僚たちをおとしめるような記事を、許すわけにはいかなかったのだ。


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 6日、熊本市五福小学校。避難所となっている体育館で、サイン入りTシャツを配っていた巻は「お、揺れたね」とつぶやいた。

 「震度4までは、何とも思わなくなっちゃいましたね。いいことじゃないかもしれませんけど」。

 言葉通り、Tシャツを配る手は止まらなかった。そうやって支援活動を続けるうちに、1日が終わる。

 この日は恩師オシムさんの75回目の誕生日だった。地震が起きてから、巻は事あるごとに、オシムさんの言葉を思い出す。時には涙することもある。

 「巻には巻にしかできないことがある。いつもそうやって励ましてくれました。その言葉は、今の自分も励ましてくれるんです」。


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 4月16日未明。熊本地震の本震は、巻がいた宇城市内の実家近辺にも、震度6強という激しい揺れをもたらした。

 直後には、津波注意報も発令された。高台に逃れる一本道は、パニック状態の避難民で渋滞になった。

 「自分がやるしかない」。巻は夜道に立った。見回すと、山頂近くに運動場があった。非常時だ。ここに流し込むしかない。

 声を張り上げ、身ぶり手ぶりで乗用車を誘導する。渋滞の列はまたたくまに解消。ストライカーならではのとっさの判断だった。

 翌日からは、全国に呼び掛け、支援物資を募った。元日本代表。発信力や人脈はずばぬけている。あっという間に、倉庫は物資で埋まった。マットレスなどは数千枚も集まった。


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 自分にしかできないやり方で-。オシムさんの言葉も支えに、巻は走り続けている。

 「正直、ゴールは見えません。でも、やり続けるしかない。オシムさんは『考えながら走れ』とおっしゃってました。今は走りながら考える。待っていても、何も変わりませんから」。

 チームのため、猛然と前線を走り回る姿に、オシムさんが目を細めていたのを思い出す。巻は今日も、被災地の最前線に立ち、人のために走る。【塩畑大輔】




 ◆塩畑大輔(しおはた・だいすけ)1977年(昭52)4月2日、茨城県笠間市生まれ。東京ディズニーランドのキャスト時代に「舞浜河探検隊」の一員としてドラゴンボート日本選手権2連覇。02年日刊スポーツ新聞社に入社。プロ野球巨人担当カメラマン、サッカー担当記者、ゴルフ担当記者をへて、15年から再びサッカー担当。