冬の風物詩、サッカー全国高校選手権の舞台に58年間も挑戦し続ける人がいる。今大会でベスト8まで進んだ矢板中央(栃木)でアドバイザーを務める古沼貞雄。

新春の快晴の下、ベンチコートを羽織り、腰に両手を当ててベンチの隅からじっと教え子たちを見守る。80歳を迎える2019年も現場で迎えた。

青森山田対矢板中央 前半、ベンチに座り戦況を見つめる矢板中央・古沼アドバイザー(左から2人目)(撮影・江口和貴)
青森山田対矢板中央 前半、ベンチに座り戦況を見つめる矢板中央・古沼アドバイザー(左から2人目)(撮影・江口和貴)

■帝京率いて選手権6度V

高校サッカー界で名を知らぬ者はいない。1965年(昭40)から08年まで東京の名門・帝京を率い、74年度大会で初優勝。合わせて優勝6度、準優勝3度。高校総体では優勝3度、準優勝4度。時代を築いた。

03年に引退し、矢板中央のアドバイザーに就任したのは08年だった。週に3度、朝4時半に起きて自ら車を東京・江戸川から矢板まで走らせて指導にあたる。寒風の下で練習場に響く声色は今も変わらない。古沼は大雨が降っても、びしょぬれになるのを気にも留めずにグラウンドで指示を続ける姿も変わらない。漂う緊張感は「我々が傘をさしたり屋根の下にいたりなんか、できないですよ」と、周囲のスタッフにも伝わる。

今大会、チームは看板である堅守で、県予選から準々決勝までをオウンゴールによる1失点のみで勝ち進んだ。その守備の根幹に、古沼イズムが染みこんでいる。

よく生徒に投げかける質問がある。

「サッカーって、点取りゲームか点取らせないゲームか、どっちだと思う?」

自身にはもちろん哲学がある。

「割合で言えば、少なくとも6割は、守りのゲームです」

18年は1つ具体例もあった。6月のワールドカップ(W杯)ロシア大会。フランスの優勝を見届けると、すぐにミーティングで選手に問いかけた。

「優勝や準優勝、3位のチームを見てみろ。スターはたしかにいる。大事なのは1次リーグ、決勝トーナメントでも失点がとにかく少ない」

堅守速攻で大会を制したフランス、準優勝クロアチア、3位ベルギー。3カ国とも、2失点以上を喫したのは大会を通じて2試合だけだった。

帝京高時代、2度目の選手権優勝を果たした77年度大会を無失点で勝ち抜いた。堅い守りをベースにした戦い方こそ、揺るぎない“古沼スタイル”だ。

堅守の基本は「技術を使わないこと」。ゴールに近い場所では基本的にトラップやパスをさせない。ペナルティーエリア内は必ずワンタッチでクリアする「ゾーン1」と名付け、相手にゴール付近でプレーさせないことを徹底した。DF五十嵐磨於(3年)は171センチとセンターバックとしては小柄だが「失点しないためなら骨が折れてでも体を張ってゴールを隠す」。選手にも深く浸透している。

優勝し胴上げされる帝京監督時代の古沼(1978年1月8日)
優勝し胴上げされる帝京監督時代の古沼(1978年1月8日)

■体張る粘り強さ伝える

「私はサッカーは素人でしたから」

自身は陸上部だった。箱根駅伝出場を夢見て東洋大に入学も、ケガで断念し日大に再入学した。卒業後、サッカーの知識がほぼないまま指導者の道を歩み始めた。

まったくの無名校だった帝京の監督に就任すると、近隣の学校の部活に参加してサッカーを学んだ。相手の監督が酒好きだと知れば、一升瓶を手にぶら下げて練習試合を頼みにいった。

守備の大切さに気づいたのは、監督就任から5年がたったとき。66年度の全国選手権で習志野(千葉)初優勝に導いた監督の西堂就(たかし)と酒を酌み交わした時だった。

就任わずか3年半で習志野を日本一にした名将とは、指導者1年目からよく練習試合を組んでもらっていた。帝京はすでに全国大会の常連になった一方、なかなか勝ち進めずにいた。

焼酎が進み、少し声が大きくなった西堂にこう言われた。

「古沼よ、お前は江戸っ子だからな。酔った先のことは考えられないだろ」

意味を理解できずにいた。言葉は続いた。

「サッカーは攻撃もあれば、守備もあるんだ。守ることも考えたら、帝京はもっと強くなるんじゃねえかなあ」

はっとした。個人技を優先した奔放な帝京サッカーは、当時3強と言われた広島勢、静岡勢、埼玉勢の壁にはね返され続けていた。気持ちのいい攻撃の他にあるところに目を向けてみろ。西堂からのメッセージだった。

そこから守備を重視した戦術に方針転換。クリアなどの決まり事を徹底し、「(ボールを)取ろう、取ろうは取られのもと」という標語を作ってカバリングの重要性も説いた。そして、守りに欠かせないのはなにより体力。陸上部だった経験を生かし、体力を鍛え上げた。練習試合に負ければ、学校に戻って1時間のランニング。長距離ランナーだった自身が先頭に立った。技術は教えられなくても、体を張る粘り強さは伝えられた。就任から9年で、日本一まで駆け上がった。

青森山田対矢板中央 矢板中央 先発メンバー(撮影・浅見桂子)
青森山田対矢板中央 矢板中央 先発メンバー(撮影・浅見桂子)

■川上哲治のにらむような目

45年前の、消えない記憶がある。36歳にして選手権を初制覇した74年度大会後、あるテレビ番組に出演したときのことだった。古沼の他に若手社長ら数人が、プロ野球の巨人で前年に前人未到のV9を達成し、10連覇を逃して辞任したばかりの川上哲治(故人)を囲んだ。

高校選手権を初めて優勝したばかりの古沼は、19歳上のスポーツ界の巨星に向かってちゅうちょなく言った。

「長嶋、王という長距離打者がいる。しっかり守っていれば、2人が1試合4打席として、8打席で1本はホームランを打って勝てるだろう。そういう意味で、巨人は守りのチームなのでは?」

川上のにらむような横目が忘れられない。「そう簡単なもんじゃない。守ってるだけじゃ勝てない」。なめるなよ、若造。そう言われたような気がした。古沼は「このシーンはカットされてましたよ」と豪快に笑う。川上哲治を相手にしても、迷わず守備へのこだわりを意見にしてぶつけた。

もともと強かった信念を確固たるものにしたのが、アルゼンチンで見た光景だった。40代のころ、チームを率いて5度以上は南米の地を訪ねた。78年にアルゼンチンを初のW杯優勝に導き、後にマラドーナを育てたメノッティ氏が率いたボカ・ジュニアーズの合宿にも同行。とにかくがつがつぶつかり合う選手たちを見た。

「すね当ての下に『殺せ』って書いてあるんじゃないかというくらい、足元から削りにいっていた」。

70年W杯メキシコ大会をブラジルが制してから、70年代は個人技で攻め立てるブラジルの全盛期と言われた。まだ弱小国だったアルゼンチンは勝つために、まずは相手の攻撃を食い止めようと必死だった。泥くさく、華麗さはなくとも勝ちたい。強いチームに勝つには、とにかく守備をすること。アルゼンチンのトップ選手がこの思いでボールを追っているのを見て、自分が信じるものは間違えていないと思えた。古沼が2度目の選手権制覇を決めた直後の78年、アルゼンチンは悲願のW杯初優勝を果たした。

矢板中央対青森山田 前半、先制ゴールを決めた矢板中央MF真島(中央)はイレブンに祝福される(撮影・浅見桂子)
矢板中央対青森山田 前半、先制ゴールを決めた矢板中央MF真島(中央)はイレブンに祝福される(撮影・浅見桂子)

■志ある指導者に自分の考え

現在は矢板中央と合わせて3校でアドバイザーを務める。大津(熊本)の平岡和徳総監督、帝京長岡(新潟)の谷口哲朗総監督はともに帝京時代の教え子で、それぞれ83年度大会、91年度大会の優勝メンバーだ。今大会は3校がそろって出場し、2校が8強に残った。“古沼イズム”は今も高校サッカー界で健在だ。

中でも足しげく通う矢板中央の高橋健二監督は、矢板東の卒業生で古沼の教え子ではない。

なぜ、矢板中央に?

率直な質問をぶつけると、こう返ってきた。

「教え子かどうかは問題ではない。志がある指導者に聞かれることがあれば、なんでも自分の考えを話します」

矢板中央は準々決勝で青森山田に敗れた。先制して得意の展開に持ち込んだが、堅守を破られ逆転された。泣いてピッチに倒れ込む選手たちを、古沼はベンチから立ち上がることなくじっと見つめた。

「うちのめされたところから、またトレーニングの1歩が始まるんです。『どうしてやられたんだろう』とね」

飽くなき名将の信念は、必要とされるすべての場所に注がれ、生き続ける。(敬称略)

【岡崎悠利】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サッカー現場発」)