練習場にくぎがまかれた。深夜に爆竹騒ぎがあった。夜中に部屋へ、無言電話がかかってくる。ホテルの高層階に泊まっていたが、エレベーターが動かず何度も階段を使った。会議室が盗聴された。練習する横で軍事訓練をしていた…。

国の威信をかけて戦うサッカーで、ピッチ外の“アウェーの洗礼”は数え上げたらきりがない。不可解な判定が続く“中東の笛”に象徴されるように、試合中の審判の偏った判定もある。

他にも、モノを投げられる。実弾で武装した軍人に囲まれた中での試合などなど。元日本代表選手たちは、これらを武勇伝のように話す。

この嫌がらせと思われる出来事は、ほとんど、その1試合に限るもの。ただ、その中でも、04年7~8月のアジア杯。猛暑の中国で日本は3週間にも及ぶ、不可解ともいえるプレッシャーを受け続けた。

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当時日本では、過去の日中戦争がその原因の1つと報じられることが多かったが、実は、ちょっとした誤解が導火線となっていた。

日本は04年7月20日にオマーンと初戦を戦った。その前日会見。日本サッカー協会は、大会に集まった各国報道陣に、英語で作成した選手紹介などの冊子を配った。その中の1ページにアジアの地図が載っていて、アジア各国が色分けされていた。会見前、中国の報道陣が騒ぎ出した。「なんで、中国と台湾の色が違うんだ!」。会見で、日本代表のジーコ監督に質問が飛んだ。ブラジルの英雄である同監督は「サッカーに政治を持ち込んではいけない」と大人の対応をしたが、中国報道陣の怒りはおさまらず、さらにエスカレートした。

その後、日本協会は中国報道陣に何の説明もせず、ジーコ監督を無事に会見場から移動させることに集中した。実は、その色分けは国で分けたわけではなく、代表チームを統括している国と地域のサッカー協会、連盟を分けたものだった。この短い説明が会見場でされていたら、状況は変わったかもしれない。

日本代表は1次リーグを含む6試合を戦ったが、相手がどこであろうと、完全アウェー状態だった。君が代が流れると、それをかき消すブーイングがあった。試合会場への移動バスに石や空き缶が投げつけられた。日本からの報道陣を運ぶバスにも石が投げられ、驚いた記憶がある。

ピークは中国との決勝だった。試合前から「もし勝ったら、無事にホテルに戻れる保証はないだろうな」と、日本協会関係者から心配の声があった。3-1の勝利。日本のバスは当然のように中国サポーターに囲まれ、会場からすぐには出られない。ビンや空き缶が無数に飛び、取材していたシンガポールからの記者が、血まみれになった。

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ピッチ内外で、3週間の苦闘に勝った日本代表、イレブンを動揺させず、1つにまとめたジーコ監督のカリスマ性が光る大会だった。

その大会期間中の一幕。決勝トーナメントの最中、日本選手団は1日だけ練習をやめ、万里の長城を観光した。日本協会関係者はトラブルが起きるのでは? とピリピリしていたが、日本代表は中国人観光客らに囲まれ、記念撮影に応じるなど、フレンドリーな時間を過ごした。

もう17年も前のことだ。当時の記憶をたどれば、石を投げた中国のサポーターの顔より、日本代表と肩を組んで写真を撮った中国人の笑顔の方が、強く頭に残っている。

さて、ワールドカップ(W杯)カタール大会に向けた、アジア最終予選では、どんなアウェーの洗礼に、さらされるのだろうか-。決して、一筋縄ではいなかいはずだ。【盧載鎭】

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