プレーバック日刊スポーツ! 過去の6月3日付紙面を振り返ります。1998年の1面(東京版)はカズ(三浦知良)のフランスW杯最終メンバー落選でした。

◇ ◇ ◇

 キングが落ちた。1990年代の日本サッカーを支えてきたカズ(三浦知良=31、川崎)が、22人のフランスW杯最終メンバーから外れた。岡田武史監督(41)が2日、カズ、MF北沢豪(29=川崎)DF市川大祐(18=清水)の代表落ちを発表。カズは北沢とともにチームを離れ、イタリア・ミラノへ移動し、帰国の途につくという。夢だったW杯の舞台を目前にして、カズは日の丸を外すことになった。

 実力社会は非情だった。この日午前11時すぎ、カズは人生最悪の通告を受けた。岡田監督の部屋に一人呼び出された。「残念だが外れるけれど、一緒にやってほしい」。90年のデビューから、積み重ねてきた日本代表としてのキャリア。それがこの一言で、事実上終えんした。

 岡田監督は「僕の読みが甘かった。これほどショックを受けるとは思わなかった」と言った。それほど、カズの受けた衝撃は大きかった。これまで、常にチームに必要となるプレーを心掛けてきたカズ。だからこそ、岡田監督のこの言葉は冷静に受け止められなかった。「FWは城を柱に考えている。カズを使う機会はないと判断した」。これが代表落ちの理由だった。

 岡田監督は落ちた3人も帯同すると言ってきた。カズも日本を出発する時と同様に、「チームのために残る」と答えたという。しかし、カズのショックの大きさに、岡田監督も軌道修正せざるを得なかった。「ショックを受けた選手を残すのは得策ではないと判断した。影響力が大きい選手なので、チームにマイナスになると思って強制的に帰した」。正午すぎには北沢とともにスイスの宿舎を出た。報道陣の目を避け、車を飛ばしてイタリア・ミラノへと向かった。便がとれ次第、帰国するという。

 カズは15歳で単身ブラジルに乗り込んだ時から、W杯を「夢だ」と言い続けてきた。セリエAに一人で乗り込んだのも、非難に耐え続けてきたのも、すべてはその舞台に立つためだった。だが、岡田監督の気持ちは5月の時点でほぼ決まっていた。1日のニヨネ戦で決めたハットトリックも、ただ岡田監督の手のひらの上で踊らされていただけだった。それでも、だれよりも強く、激しく、懸命に90分間プレー。カズの最後の意地でありプライドだった。

 30歳を迎えた昨年の春ごろ、友人に漏らしていた。「何かズレてるんだよね」。プレーのキレ、ジャンプ力、スタミナ、すべての面で、イメージとの微妙な「ズレ」を感じていた。度重なる故障と年齢的な衰えの影響は隠せなかった。だが、それを言い訳にはしなかった。弱音は吐かなかった。1日の試合後に「自分を信じるだけ」と言ったのは、カズ最後の虚勢だった。

 90年9月26日のAマッチデビューから2806日。日本サッカー界はW杯初出場の直前に、一つの時代の幕を閉じた。フランスの地を目前にして、夢を夢で終わらせたカズ。日本をたつ前には「2002年(日韓共催大会)もある」と言った。しかし、90年代最大の貢献者を、20世紀最後のW杯も待っていてはくれなかった。

◇日本代表KAZU◇

◆デビュー戦 1990年(平2)9月26日、北京アジア大会バングラデシュ戦。8月にブラジルから帰国したばかりで、国内公式戦デビューもしていなかった。

◆代表初ゴール 91年6月5日のバスコ・ダ・ガマ(ブラジル)との親善試合(西京極=2-1)。Aマッチでは92年8月26日の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)戦(北京=4-1)。

◆一矢 95年1月8日、サウジアラビア・リヤドでのインターコンチネンタル杯アルゼンチン戦で、日本は1-5と完敗した。カズは後半12分にFKを決めた。

◆ダブルハットトリック 昨年6月22日のW杯アジア1次予選マカオ戦(東京・国立)で、6得点の大暴れ。日本代表では釜本、木村に次ぐ1試合タイ記録を達成した。

◆好スタート 9月7日の同最終予選初戦となったウズベキスタン戦(東京・国立)でも4得点を挙げた。

◆歴代2位 代表Aマッチでの通算得点は54。釜本の73点に次ぐ。出場試合も86試合で歴代2位。

◆代表落ち 今年4月1日の、韓国との2002年W杯共同開催記念試合(ソウル)では、代表落ち。2739日ぶりの落選だった。5月7日のW杯メンバー発表で復帰していた。

※記録や表記は当時のもの