東京・上野。駅前の大きな横断歩道を渡ったところに有名な和菓子店があった。創業は1873年、明治6年という老舗の売りは豆大福。店の入るビルの上階に、5代目でもある岡野俊一郎はいた。実家の和菓子店経営に携わるかたわら、日本サッカー会長など要職を歴任し、発展に尽力した重鎮だ。

2007年(平19)夏。汗だくの私は、差し出された冷たい麦茶を遠慮なくいただきながら、あの穏やかな語り口に聞き入った。

日刊スポーツ大阪版に「伝説」というタイトルの大型連載がスタートしたのが、その年の春。スポーツ新聞が扱ってきた野球をはじめ、芸能、社会、公営レースの各ジャンルで昭和を彩ったトピックスをテーマに10回から15回ずつ取り上げていく企画だった。私は1968年(昭43)メキシコ五輪銅メダルのサッカー日本代表を連載する回を任され、取材する関係者をリストアップ。大会得点王の釜本邦茂らと並び、当時コーチだった岡野は連載執筆に欠かせないキーマンだった。

【日本サッカーの父は大和魂を求めたドイツ人/メキシコ五輪サッカー銅連載】はこちら>>

五輪男子サッカーで日本の最高成績は今も「アステカの奇跡」と言われるメキシコ大会。その初戦の相手はナイジェリアだった。

「あのときはとにかく相手チームの情報がなくてね。弱っていたんだよ。でもね…」。

岡野は懐かしそうに振り返り、資料が収められたファイルを引き出しから取り出した。手紙を数枚取り出すと、私に見せてくれた。当時首都だったラゴスに住む日本人とのやりとりがしたためられていた。

岡野はコーチでありながら遠征の手配、財務管理と1人何役もこなしたが、最も重要な役割が情報分析だった。同組のブラジルは移住していた学生時代の友人から、スペインは五輪予選で対戦したイギリスから情報を得ていたが、ナイジェリアだけはつてがない。しかも初戦だから大会が始まってからというわけにもいかない。

「あきらめかけていたところに、大洋漁業(当時)の駐在員から手紙が届いた」。

日本がナイジェリアと対戦することを新聞で知り、何でも協力すると申し出てくれたのだ。岡野は感謝の言葉をつづり、具体的に「足の早い選手は?」「ゲームメーカーは?」など選手、チームの特徴を知らせてほしいと記した。

【岡野俊一郎がナイジェリアの日本人駐在員に送った手紙/メキシコ五輪サッカー銅連載】はこちら>>

今から半世紀も前のことだ。情報化社会の現代とは違って海外への手紙や郵便物が届くのは何日もかかる。返信が間に合わないことも考え、メキシコの選手村の住所も書いた。そのかいもあり、試合数日前に8ミリフィルム6本が届いたという。

日本人が客席に行けば目立ってしまう。しかも敵国の情報収集となればなおさらだ。駐在員は自分が雇うナイジェリア人運転手に頼み、壮行試合を客席から隠し撮りさせた。

「体のこなし方、利き足などが分かった。本当に助かった」。

釜本がハットトリックを決めて3-1。1次リーグ突破へ弾みを付ける快勝だった。岡野は思い起こしたように頭を下げ、帰国後に送った日本蹴球協会からの感謝状とともに手紙をコピーしてくれた。

【岡野俊一郎が送った日本蹴球協会からの感謝状/メキシコ五輪サッカー銅連載】はこちら>>

岡野の話は、何時間でも聞いていられるほど興味深かった。今のテレビ東京系で68年から20年間放送された「三菱ダイヤモンドサッカー」では、アナウンサー金子勝彦とコンビを組み、日本に海外のサッカーを紹介した。落ち着いた声色に乗せた豊富な知識にサッカー少年たちは引き込まれた。私もその一人だった。

岡野のサッカー哲学に大きな影響を与えたのが、デットマール・クラマーだった。64年東京五輪。岡野はアシスタント兼通訳として、後に日本サッカーの父と呼ばれるドイツ人をサポートした。どん底にあった代表チームの危機感、当時どの競技も取り入れていなかった外国人プロコーチ招請にいたった経緯、何よりクラマーという人物を分かりやすく語ってくれた。

そのクラマーも、東京とメキシコで監督を務めサッカー協会の会長でもあった長沼健、そして岡野も2度目の東京オリンピックは残念ながら天国からの観戦になる。生前、惜しむことなく彼らが話してくれたことは今となっては貴重な証言ばかりだ。今回、日本の1次リーグにはメキシコ大会でも戦ったフランス、メキシコが同組に入った。

偶然か、運命か。

それとも、オレたちを越えてみろ、という先人たちのメッセージか。

半世紀前、クラマーは銅メダリストのイレブンを見て涙したという。

「大和魂を見せてくれた」。

歴史の上に今がある。あのとき、どんなドラマがあったのか。

もう1度、ギラギラした男たちの夢の跡をたどってみたい。(敬称略)【西尾雅治】

【奇跡の逆転と屈辱の大敗「世界のカマモト」の原点/メキシコ五輪サッカー銅連載】はこちら>>

 

◆デットマール・クラマー 1925年4月4日、ドイツ生まれ。第2次世界大戦後にボルシアMGでプレーしたが、膝を痛めて51年に引退。ドイツ西部地域協会の主任コーチに。60年、東京五輪を目指す日本代表の特別コーチに就任。64年メキシコ五輪の銅メダル獲得の土台を築いた。日本リーグ発足にも尽力し「日本サッカーの父」と呼ばれる。日本との契約終了後、国際サッカー連盟(FIFA)技術委員として世界を巡回。Bミュンヘン監督としても欧州チャンピオンズ杯(現チャンピオンズリーグ)で優勝2度。05年日本サッカー殿堂の第1回受賞者となる。15年9月17日、90歳で死去。