81年前の伝説を再び-。J2山形が今日26日、天皇杯準決勝(ヤンマースタジアム長居)でJ2千葉と対戦する。勝てば東北勢では1933年(昭8)の仙台サッカークラブ以来となる決勝進出を果たす。戦前に東北大と東北学院専門部を中心に結成され、戦後も全国の舞台で健闘。地元の強豪チームを原点に、東北サッカー界の発展に貢献した東北大OBの伊藤孝夫氏(84)に話を聞き、歴史をたどった。【取材・構成=鹿野雄太】

 仙台サッカークラブは1927年(昭2)に東北大と東北学院専門部を中心に結成された選抜チームで、同年の全日本選手権(天皇杯の前身)に東北勢初出場を果たした。初戦で早大高等学院に0-1で惜敗したが、全国進出の第1歩を刻んだ。6年後には関東、関西勢を連破して決勝進出。北日本屈指の強豪チームの本拠地・東北大工学部グラウンドでは多くの主催大会が行われ、戦前の東北サッカーの中心だったという。

 伊藤氏

 家から歩いて5分くらいのところに東北大のグラウンドがあった。片平小に入学してすぐ、初めてサッカーに触れたのが仙台サッカークラブ。当時は野球も盛んだったけど、近所ではサッカーも人気があった。たくさん人が集まって、校舎の屋上まで上がって見た覚えがある。それからは近くの一番大きな遊び場という感覚で、敷地内で小さなまりを蹴っていた。

 仙台サッカークラブの躍進の陰には、優秀な指導者の存在もあった。戦前に東北6県の先駆けとして1926年(大15)に発足していた宮城県サッカー協会の一員だった千葉幸雄氏(故人)だ。仙台市出身の同氏は東北学院専門部を経て東北大を卒業。母校はもちろん、市内の中学や山形、青森など県外にも足を延ばして指導したという。情報がない時代に本場イギリスから教本を入手し、選手たちと辞書を引きながら翻訳。関東や関西の中央都市に対抗できるチームを作った。

 33年の天皇杯決勝の記録には、F(フルバック)、H(ハーフバック)、IF(インサイドフォワード)など現在では見られないポジション名が表記されている。当時の主流システムは2-3-5。戦後も世界基準のスタイルをいち早く取り入れて、東北サッカー界のトップに君臨し続けた。

 伊藤氏

 日本サッカーが初めてオリンピックに出た36年、優勝候補のスウェーデンに勝った(ベルリンの奇跡)。あの時のWMシステム(3-2-5)も、すぐに伝えられたと聞いている。46年に初の国体開催に合わせて東北各県にサッカー協会ができたが、昭和30年代前半までは宮城が頭ひとつ抜けて強かった。

 51年には仙台サッカークラブをはじめ、宮城県勢の活躍が認められて全日本選手権が仙台で開催された。結果は4位だったが、初めて「天皇杯」が授与された記念すべき大会となった。その2年後、大きな転機が訪れる。同年の国体から一般の部が廃止され、教員の部が新設。選手の高齢化も進む中で多くの大会を転戦していたチームは事実上解体され、現役の学生たちにバトンが渡された。

 伊藤氏

 戦前からのメンバーが中心だったので、ほとんどが20代後半から30代になっていた。全員そろっての練習も日曜日くらいしかできなかったようだ。私たち現役とOBは別々に活動するようになったが、もし教員の部ができていなかったら、私も仙台サッカークラブの一員として活動していたかもしれない。

 名前は消滅しても、伝統は脈々と受け継がれた。同じグラウンドでボールを追いかけた伊藤氏は国体に10度出場し、56年に教員の部で東北勢初優勝を達成。指導者としても宮城工を全国大会に3度導いた。64年には東京五輪のサッカー競技役員を経験。県と東北の協会理事長として社会人リーグの整備やスポーツ少年団の結成を進めるなど、各世代に普及させていった。

 競技人口は着実に増えたが、“ビッグクラブ”の不在が全国との差を広げる大きな要因となった。65年に開幕した日本サッカーリーグに参戦するチームはなく、東北社会人リーグ発足は12年後。80年代前半まで東北で2強状態だった新日鉄住金釜石(岩手)やTDK(現J3秋田)も、天皇杯など大舞台では上位進出もかなわない時代が続いた。

 伊藤氏

 70年の大阪万博の後に企業スポーツチームは増えたが、サッカーではなかなか結果が出なかった。我々も宮城で強いクラブをつくろうと動きだして、東北電力サッカー部(現J1仙台)が発足したのが88年。少し前からNEC山形も、92年の国体地元開催に合わせて本腰を入れて強化に取り組んでいた。

 このNEC山形こそ、モンテディオ山形の前身となったクラブだ。東北社会人リーグに昇格した90年に無敗で初優勝。93年まで4連覇を達成し、94年に東北勢で初めて旧JFL昇格を果たした。そして、翌95年から指揮を執ったのが石崎信弘監督(当時37)だった。

 98年の退任から16年後、石崎監督が復帰した山形は躍進を遂げた。リーグ戦6位でJ1昇格プレーオフ出場権をつかみ、天皇杯でも頂点まであと2勝と迫った。戦前から東北サッカー界の礎を築いた仙台サッカークラブに肩を並べ、歴史の1ページを刻む。

 ◆伊藤孝夫(いとう・たかお)1930年(昭5)9月3日、仙台市片平生まれ。21年に宮城師範学校予科で本格的にサッカーを始める。ポジションはCF。東北大在学時と宮城教員クラブ員として国体に10度出場し、56年兵庫大会で東北勢初優勝。指導者としても宮城工で全国大会3度出場。その後は東北工大教授を務めながら宮城県と東北協会理事長、日本協会理事などを歴任。ブランメル仙台(現J1仙台)の立ち上げにも尽力。現在は宮城県サッカー協会名誉会長、J1仙台顧問など。