サッカー元アルゼンチン代表のディエゴ・マラドーナ氏が25日、心不全のためブエノスアイレス郊外の自宅で死去した。水色の背番号10が世界を驚かせたのは1986年W杯メキシコ大会。母国を2度目の世界一に導いただけでなく、イングランド戦で見せた「神の手ゴール」と「5人抜き」で、世界の「伝説」となった。「光」と「影」を合わせ持つ絶対的な存在は、この1試合で生まれた。

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わずか2つのプレーで、マラドーナは「伝説」になった。W杯メキシコ大会準々決勝後半9分、自陣でパスを受けて反転すると、相手ゴールを目指して一気に加速した。1人、2人…、視線によるフェイントと左足の軽いタッチ。165センチのドリブラーが190センチもの巨漢を次々とかわす。最後はGKシルトンまで抜いてシュート。「5人抜きゴール」を伝説にした。

3分前、1点目もマラドーナだった。ゴール前に上がった相手のクリアボール目がけてジャンプ。シルトンより先に左足ではなく左手でゴールに入れた。今ならVARでハンドになりそうだが、ゴールは認められた。マラドーナ本人はイングランド選手たちの猛抗議にも知らんふり。後に悪びれることもなく「神の手だった」と暗に手を使ったことを認める発言をした。

「虚」と「実」、「疑」と「正」、「反則」と「美技」…。W杯で2ゴールした選手は多いが、これほど衝撃的な2点を決めた選手はいない。ともに後世まで語り継がれるゴール。それを1試合、わずか4分の間に決めてみせたのだ。もともと、フォークランド紛争の当事国同士として注目された。しかし、そんな背景も吹き飛ぶほど、記憶に残る「2発」になった。

この試合は、日本でもNHKで中継された。山本浩アナウンサーの「マラドーナ、マラドーナ、マラドーナ…、来たあ~、マラドーナ!」の実況に、多くの日本人が興奮した。日本で開催された79年ワールドユース(現U-20W杯)はコアなファンが注目しただけだったが、このW杯で日本中がマラドーナを、そして世界のサッカーを知った。

86年は日本サッカー界に奥寺康彦、木村和司と2人の「プロ選手」が初めて誕生した年。日本リーグのプロ化、Jリーグ発足に向けてサッカー界が大きく動くために、マラドーナが果たした役割も大きい。サッカー少年は「5人抜き」に憧れ、プレーをまねた。彼らがJの主力に育った。日本だけではない。たった1人の2つのプレーが、世界のサッカーを進化させた。

60年の人生は、波瀾(はらん)万丈だった。W杯優勝、世界最優秀選手、20世紀最高選手の「光」とともに「麻薬中毒」「アルコール依存症」「買春疑惑」「暴力騒動」と「闇」もあった。そんな人生を象徴するような1戦。イングランド戦は「マラドーナ」を唯一無二の絶対的な存在に押し上げた試合だった。【荻島弘一】

◆86年W杯メキシコ大会のマラドーナ 1次リーグは、引き分けたイタリア戦の1ゴールのみだったが、チームは韓国、ブルガリアに勝利し、首位で決勝トーナメントに進出。準々決勝のイングランド戦で2ゴールの活躍を見せると、準決勝のベルギー戦でも2ゴール。西ドイツとの決勝では、2-2で迎えた後半38分にブルチャガの決勝ゴールをアシストし、チームを2度目の優勝に導いた。マラドーナは、7試合5ゴールで大会MVPに輝いた。

◆ディエゴ・マラドーナ 1960年10月30日、アルゼンチン・ブエノスアイレス州生まれ。アルヘンチノス・ジュニアーズ、ボカ・ジュニアーズ、バルセロナ、ナポリなど所属。W杯は82年から4大会連続で出場、21試合8得点。優勝1回、準優勝1回。10年W杯でアルゼンチン代表監督。現役時代は165センチ、67キロ。