1986年W杯メキシコ大会でアルゼンチン代表を優勝に導き「神の子」と呼ばれたディエゴ・マラドーナ氏が25日、ブエノスアイレス郊外の自宅で死去した。同国メディアによると、心不全を起こしたという。10月30日に60歳になったばかり。栄光と挫折の明暗が色濃い、波瀾(はらん)万丈の人生だった。

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「サッカーが大好きないい子だよ」。マラドーナより一回り小柄な父ディエゴさんは言った。90年W杯、日本のPJMが獲得に乗り出したこともあり、ローマ近郊のアルゼンチン合宿地に何度も足を運んだ。メディアと不仲な本人との接触は難しかったが、父親とは仲良くなった。「純粋なんだ」と、孤立する息子を思う父の言葉を思い出す。

79年ワールドユース、国立競技場で心を奪われた。W杯での活躍を見るため82年にスペインに行ったが、相手選手への跳び蹴りで退場。「活躍を会社の金で見たい」と、スポーツ紙に入社した。夢がかなった90年イタリア大会、前回メキシコ大会の英雄は「ヒール」だった。1人でチームを決勝に導いたが、プレー以上に奔放な言動が注目された。優勝を逃しても、大会の主役はマラドーナだった。

94年のW杯からは、薬物使用で追放された。それでも、最も印象に残ったのはマラドーナの鬼気迫る顔。連続で出場した4大会は、すべてが「マラドーナの大会」だった。いや、引退してもW杯の主役の座は譲らない。監督でも、スタンドでも、常に注目された。

思ったことをして、口に出す。自らの行いを反省することはもちろん、振り返ることもない。周囲を気にせず、子どものように振る舞う。法を犯しても、なお「悪い」という感覚もないのだろう。ある意味、理想的な生き方。悪気がないから誰からも愛され、サッカー選手の枠を飛び越えて絶対的な存在になった。

日本リーグ時代から取材する同学年のサッカー記者とは「マラドーナ会」として交流が続く。ワールドユースで衝撃を受け、W杯や日本戦を取材し、同じ時代を過ごしてきた。プレーだけではなく、考え方、生き方、すべてが魅力的。「マテウス会」になることはない。グラシアス(ありがとう)、そしてアディオス(さよなら)、ディエゴ。【荻島弘一】