フランスのレキップ紙は14日付で「フランスリーグで重きをなした初のアジア人」として、元日本代表MF松井大輔(40=フットサル・YSCC横浜)のインタビューを掲載した。19の質問に答えた中で、松井は2004年アテネオリンピック(五輪)後に欧州移籍を決断した際に、イタリア・セリエAの名門ラツィオから獲得オファーを受けていたことを明かしている。

「アテネ五輪が終わってから、A代表でプレーをするという目標を定めていて、日本代表チームのMF(中田英、小野、稲本、中村俊ら)はみんなヨーロッパでプレーをしていた。私の代理人によると、ラツィオからオファーをもらっていた。(一方で)私のビデオを見たスイス人のヘッドハンターが、ルマンについて熱く話してきた」

京都サンガに在籍していた松井は、熟考の末に当時フランス2部のルマンへ期限付き移籍。1部昇格に貢献して「ルマンの太陽」と呼ばれるまでになり、翌シーズンから完全移籍となった。

ルマンへの順応についてはこのように語っている。

「初練習から、とりわけアフリカ人選手のグループに入っていった。彼らはムードメーカーで、私はチームのマスコットのような存在だった。ルマンはひとつの家族のようだった。3年間の徹底的な努力で、思うようにフランス語を話せるようになった。その努力を後悔していない」

1部昇格後もルマンで活躍できた背景には、必死に仲間からの信頼をつかもうとしていたという。

「良い結果を出せば、他の人たちは信頼してくれる。(当時の同僚)ロマリックは1度か2度パスをくれて、もし自分が何もしなければ3度目のパスはくれなかった。幸いにも私はゴールのシチュエーションを作った。そこに感情はなく、全ては効率的だった」

レキップ紙は40歳になった松井について「引退はせずに、最後の挑戦としてフットサルを選んだ」と伝えている。(松本愛香通信員)