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特別連載 THE OTHER SIDE




ホーム > 特別連載 THE OTHER SIDE > 第4回 田中マルクス闘莉王


田中マルクス闘莉王 「尊敬できる人か、できない人か」

リーグ制覇を決めたG大阪戦でボールクリアする闘莉王=2006年12月2日(撮影・野上伸悟)リーグ制覇を決めたG大阪戦でボールクリアする闘莉王=2006年12月2日(撮影・野上伸悟)

 闘う男は、義理人情に厚い男でもある。初優勝をかけたG大阪との最終決戦。浦和DF田中マルクス闘莉王(25)の肉体は限界に近かった。左ひざ痛、同ふくらはぎ炎症が右足にも負担をかけ、右足内転筋にも痛みが及んでいた。汗からは痛み止めの薬のにおいを発し、タックルを仕掛けると筋肉の切れる音が分かったという。それでも優勝の瞬間までピッチに立ち続けた。

 「たとえサッカー人生が終わることになるとしても試合に出たかった」。

 返さなければいけない恩と、果たさなければいけない約束があった。

 日本人になる道を教えてくれた人がいる。渋谷幕張高2年生の時「5年後に日本人になってアテネ五輪に出るんだ」と声を掛けてきたのは当時の広島総監督の今西和男氏。それまで発想したこともなかった考えに最初は戸惑った。

 それから日本で暮らしていく中でさまざまな人との出会いがあった。「僕が大きな舞台で活躍すれば、少しは恩返しできる。だから日本人になろう」。今西氏の一言からまさに5年後の03年に国籍を取得。翌年にはアテネ五輪出場も果たし、その言葉は現実となった。「今西さんは僕にとって大きな存在だった」と感謝の念を忘れない。

J1リーグ初優勝を決めGK山岸と抱き合う闘莉王=2006年12月2日(撮影・野上伸悟)J1リーグ初優勝を決めGK山岸と抱き合う闘莉王=2006年12月2日(撮影・野上伸悟)

 広島時代は認められなかった攻撃的スタイルを許したのはJ2水戸時代の前田秀樹監督であり、浦和のブッフバルト監督だった。03年に水戸でDFながら10得点を挙げて脚光を浴びなければアテネへの道は途絶えていたし、浦和でも攻撃参加を制限されていたらオシムジャパンで絶対的な存在になったかは分からない。

 ブッフバルト監督とは約束を果たす最後のチャンスだった。3年前に浦和との初交渉の席で契りを交わした。「浦和を優勝させて一緒に歴史に名を残そう」。以後、3シーズンにわたり時には無謀なプレーにも映った闘莉王の攻撃に注文をつけることはなかった。今季限りでの退任を決意していた指揮官との約束を破るわけにはいかなかった。

 25歳とまだ若いが、チームではベテランの風格さえ漂う。先輩を容赦なくしかり飛ばすことは日常茶飯事だ。「上下関係は嫌いなんですよ」と安易な縦社会には迎合しない。だが、これと見込んだ人にはどこまでも尽くす。「尊敬できる人か、尊敬できない人かというのが僕が大切にする基準」。闘莉王は自分のため、そして人のために闘う男だ。【広重竜太郎】

広重 竜太郎ひろしげ・りゅうたろう
 横浜市出身。日刊スポーツ入社後、東北支社勤務を経てスポーツ部へ。支社時代から主にサッカー取材で、仙台、横浜、浦和などを担当。29歳。

※本連載は毎週木曜日更新予定です



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