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特別企画 The wish is ─アスリートを支えるコーチの戦い─

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米倉照恭コーチ(ニシ・スポーツ)PROFESSIONAL ~沢野大地に託す勝負へのこだわり~

ショップ店員から社長の一言でコーチに

 「棒高跳びの神様がいて、引き合わせてくれたんじゃないか、と思います。まさか、こんな展開になるとは思っていなかったから」。

沢野の写真の前でインタビューに答える米倉照恭(2007年7月19日)
沢野の写真の前でインタビューに答える米倉照恭コーチ(2007年7月19日)

 陸上男子棒高跳びの日本記録保持者、沢野大地を指導する米倉照恭コーチは、真剣にそう思っている。

 米倉コーチは96年アトランタ五輪に出場したあと、98年に現役を引退。その後は、所属していたゼンリンで営業の仕事をしていた。「選手としてはやりきったし、違う世界を見てみたかったから」という理由で、高校時代から生活のほとんどを占めていた陸上とはあえて距離を置いていた。

 米倉コーチが沢野に最初に出会ったのは、引退する直前の98年日本選手権だった。

「すごいヤツがいる、というのは聞いていたんです。でも、実際に会ったことはなくて。試合前にサブトラックに沢野があいさつに来てくれて握手をした。そのときの握力で、ものすごくパワーがあるな、と思いました」。

 高校時代は総体で2連覇するなど活躍した沢野だったが、大学時代は思うように成績が伸びなかった。そして米倉コーチがニシ・スポーツへ転職して2年、沢野が入社してきた。ただ、米倉コーチは東京・千駄ヶ谷のショップ勤務。陸上とは離れたままだった。ある日、社長に聞かれた。「沢野っていうのはどうなんだ? 跳べるのか?」。 米倉コーチは「はい。彼ならもっと跳べるでしょう」と答えた。「じゃあ、お前がみてやれ」。その一言で、“コーチ米倉照恭”が誕生した。

「大学時代の沢野は僕から見ても伸び悩んでいる感じだった。せっかくいいものを持っているのに、このまま終わるのはもったいないな、と。だからコーチを引き受けることにしました。最初に練習を見たときに、踏み切った後の足の振り方とかちょっとしたことをアドバイスしたら、すぐ東日本実業団で大会記録(5メートル60)を出してしまった。選手としての基礎はしっかりできている状態で僕のところにきたから、細かい部分の修正でよかったんです」。

 米倉コーチの指導を受け始めた沢野は、順調に記録を伸ばしていった。そして03年日本選手権で自身初の日本記録(5メートル75)を樹立、世界陸上パリ大会の日本代表に選出された。世界陸上では20年ぶりの決勝進出を果たすも、決勝直前の公式練習で左太もも肉離れを起こし、棄権。沢野と米倉コーチにとっての初の世界大会は苦いものになってしまった。

「実はパリへ出発する前日、手紙とコールドスプレー2本を沢野に渡しに行ったんです。部屋にいなかったので、ドアノブにかけてきただけですけど。やっぱり初めての世界陸上で緊張もあると思ったので、あまり競技のことには触れずに、普通のことを書いた記憶があります。『気楽にいけよ』という気持ちを伝えたかったんですね。でも、結果は棄権。世界で戦うにはいろんなものが足りなかったんでしょう」。

6メートルボルターを育てたい

沢野への期待を笑顔で語る(2007年7月19日)
沢野への期待を笑顔で語る(2007年7月19日)

 棒高跳びでは、選手同士でフォームのチェックなどをすることがあるという。1人で海外遠征をしている沢野には、世界のトップ選手たちに自分の顔を覚えてもらい、トップの選手からいろいろなものを吸収してきて欲しいと期待をかける。こうした海外遠征や2度の世界選手権と五輪出場で着実に成長し、世界のトップ選手と沢野の距離が縮まってきていると米倉コーチは感じている。

 遠く離れた沢野とのやり取りは基本的にメール。沢野のメールを見ながら、状況判断をして短くアドバイスを送る。日本選手権後、欧州遠征で調子を上げた沢野は、7月末に帰国。地元開催の8月世界陸上大阪大会へ向けて、国内で調整を始めた。米倉コーチは、こう期待する。

「今、世界のトップはだんご状態。誰が勝ってもおかしくないと思っています。沢野にチャンスも十分ある。だから世界陸上、五輪では記録にこだわりすぎずに、勝負にこだわってほしい。今回は地元開催だし、多くのお客様の声援を自分の力に変えてほしい。本人もメダルがほしいとはっきりと言っているし、世界陸上の自己最高順位の更新を狙ってほしい」。

 05年の日本選手権ではまさかの記録なしに終わり、沢野は悔し涙を流した。米倉コーチによると、大泣きだった。感受性豊かで繊細な面を持つ沢野らしい出来事だと分かってはいたが、米倉コーチはあえて苦言を呈した。「選手は勝って泣け」。

「表彰台は夢。やるからには、目指したい場所です。ポールの真ん中に日の丸があがる瞬間の感動は、きっと何にも代え難いと思う。今回の世界陸上では、チャンスは十分あるでしょう。もうひとつの夢は6メートルボルターを育てること。僕自身の現役時代、6メートルは“違う世界”だった。でも、沢野はまだ伸びる。きっとチャンスはあると思っています」。

 米倉コーチの「6メートルボルターを育てたい」という目標が達成されたとき、表彰台の真ん中にはうれし涙を流す沢野の姿があるはずだ。

米倉 照恭 (よねくら・てるやす)

1971年1月生まれ。中学時代は野球部に所属するも、三井高入学と同時に陸上部へ。先輩たちが練習をしていて「格好いい」と思い、棒高跳びを始める。日体大、ゼンリン。94年アジア大会で銅メダルを獲得した。アトランタ五輪の日本代表。98年現役引退。現在は、ニシ・スポーツ勤務。