▽80年大会

同年夏のモスクワ五輪ボイコットで「幻の五輪代表」となった瀬古利彦と宗茂が、無念を晴らすかのような熱戦を展開。わずか4秒差で先着した瀬古が3連覇を果たした。2人の走者が2時間10分台を破ったのは史上初。モスクワ五輪で2大会連続金メダルのチェルピンスキーは6位に敗れた。

 

▽83年大会

足のけがを乗り越えた瀬古利彦が、日本人初の2時間8分台で優勝。世界最高記録保持者(後に距離不足で記録抹消)のサラザールら国内外の強豪が集う中で、最後は新鋭イカンガーと瀬古の一騎打ちに。ラスト100メートルでイカンガーを抜き去った瀬古が、3年ぶり4度目の優勝を飾った。

 

▽87年大会

翌年のソウル五輪への切符を懸けてた“一発勝負”とされていたが、有力候補の瀬古利彦が左足剥離(はくり)骨折で急きょ欠場。ライバルの中山竹通が「はってでも出てこい」といった旨の発言をして話題になった。激しい雨や強風の中で始まったレースは、その中山の独走状態に。悪条件をはねのけて優勝した。

 

▽00年大会

3度目のマラソン挑戦となった藤田敦史が、2時間6分51秒で優勝。シドニー五輪金メダルのアベラらを置き去りにし、福岡で30年ぶりの日本記録誕生となった。このタイムは日本選手が国内でたたき出した唯一の2時間6分台で、現在も大会記録として輝き続けている。

 

▽03年大会

国内初めて10位までが2時間10分を切るハイレベルな争いを制したのは国近友昭。日本記録保持者の高岡寿成を終盤に競り落とし、最後は諏訪利成とのマッチレースに持ち込むと、日本歴代6位タイの好タイムでフィニッシュ。現役時代に大会4度制覇の瀬古監督は「自分の優勝より100倍うれしい」とねぎらった。

 

▽11年大会

異色の公務員ランナーとして注目を集めた川内優輝が3位でフィニッシュ。世界選手権出場の前田和浩、箱根駅伝で「山の神」と呼ばれた今井正人との日本人トップ争いを根性で制した。ケニア出身のジョセファト・ダビリが初マラソン初優勝を飾った。