<競歩:日本選手権50キロ>◇15日◇石川・輪島市文化会館周回コース

 「悲劇の男」が見事に復活した。08年北京五輪7位の山崎勇喜(28=自衛隊)が2年ぶり8度目の優勝を果たし、3大会連続の五輪切符を手にした。序盤から独歩する3時間41分47秒で圧勝し、日本陸連設定の五輪派遣基準「3時間51分59秒以内で優勝」をクリア。07年大阪世界選手権では係員の誘導ミスで入賞を逃し、1年前には右膝痛で引退を覚悟した「エース」が戻ってきた。

 1歩1歩に思いを込めた。「エース」の山崎が、たくましく復活した。7キロ手前で抜け出すと、残り43キロは長々と1人旅。40キロ過ぎまで日本記録を上回るハイペースで、1周2キロのコースを飛ばしまくった。「44キロまでは(日本記録に)いけると思ったけど急にガクンときた。そう甘くないですね」。残り6キロで失速。3年前にマークした日本記録更新こそならなかったが、圧勝Vだった。

 1年前は引退も考えた。ハードな練習がたたり、10年5月に右膝半月板を損傷。1年間歩けず、昨年は7連覇していた日本選手権も欠場した。何よりも足を伸ばせない状態は、膝を曲げて歩くと反則になる競歩で「致命傷だと思った」。めったに実家に連絡しない男が、母やす子さん(61)に「やめなきゃいけない」と電話でこぼすほどだった。

 昨年4月に前所属先を退社。順大時代から知る日本陸連の小坂競歩部長に指導を仰いだ。不在の間に順大の2年後輩になる森岡紘一朗(富士通)が大邱世界選手権で6位入賞。「エース交代」をささやかれても、地道に超音波治療を行い、歩型基礎から作り直した。

 07年世界選手権では誘導ミスで失格となり、「悲劇の男」と呼ばれたこともある。自衛隊の陸上での五輪出場は、64年東京大会のマラソン銅メダリスト円谷幸吉以来となる。「どん底からはい上がってきた強さは身についた。今は脂が乗ってると思うので、一番いい色のメダルを取りたい」。能登のさわやかな潮風に吹かれながら、山崎がにっこりと笑った。【近間康隆】

 ◆山崎勇喜(やまざき・ゆうき)1984年(昭59)1月16日、富山市(旧八尾町)生まれ。杉原中ではサッカー部。富山商から競歩を始め、高3だった01年度日本選手権20キロで優勝。順大3年の04年アテネ五輪50キロで日本人最高の16位。05年ヘルシンキ世界選手権50キロでは日本人4大会ぶりとなる8位入賞。08年北京五輪50キロは日本勢初入賞となる7位。09年日本選手権50キロの3時間40分12秒は日本記録。179センチ、60キロ。