自民党の二階幹事長が東京五輪について「中止もあり得る」と発言した。数時間後には「何が何でも開催するかと問われれば違うという意味」と釈明、観測気球ではという見方もあるようだが、政権の幹部が初めて「中止」に言及したことが波紋を広げている。


競泳の池江璃花子やゴルフの松山英樹の活躍にスポーツ界が盛り上がる一方、新型コロナの感染拡大は止まらない。東京に続き、20日からは五輪開催地の神奈川、埼玉、千葉の各県にもまん延防止等重点措置が適用される。変異株の猛威から、3回目の緊急事態宣言も現実的になってきた。


状況を考えれば、二階幹事長の「中止」発言も当然なのだ。逆に「どうして今まで言わなかったのか」という声まである。「新型コロナに打ち勝った証」の五輪にならないことは自明。開幕まで100日を切った今でも、感染症との戦いに終わりは見えていない。


17日にはAP通信が「東京五輪は開催されるが、名ばかり」というコラムを配信した。スポーツライターのポール・ニューベリー氏は「財政的に、開催せざるをえない」と説明し「喜びや魅力、理想のない名ばかりの五輪になる」とした。


同氏は「選手は他競技との交流もなく、街の文化に触れることもない。選手らは競技会場と宿泊先に隔離される」とした。安全のために、過去の五輪とはまったく違った運営になることを批判的に書いている。


8年前、東京開催が決まった時、気持ちが高ぶったのを思い出す。1964年大会の再現が頭にあったからだ。しかし、その後「前回と違う」ことも知った。新幹線と首都高は走っているし、高度成長を願う時代でもない。男女平等、持続可能、多様性…。さらに、これまでのスポーツとはまったく違う価値観を持つスケートボードやサーフィンなども競技に加わった。


「新たな五輪の価値」を創造するため、大会組織委員会はさまざまな施策をしてきた。史上初の延期五輪となり、今度は新型コロナ禍で大会運営を求められている。選手や関係者、そして日本国民の安全のために「できる範囲での大会」を開催することになる。


もちろん、これまでの五輪が否定されるわけではない。国家、人種、宗教などに関係なく多数の選手が1都市に集い、世界平和のために交流を深めるという五輪の理想が変わることはない。しかし、現実に「密な交流」はできない。


外国からの観客受け入れは断念したし、観客数自体の削減も避けられないだろう。選手を「隔離」するのもしかたがない。新型コロナ禍で行われる大会だ。これまでと同じ大会はできない。ただ、それを無理やりプラスに考えれば、五輪に「新たな価値」を見いだす絶好のタイミング。肥大化し、商業化しすぎた大会を見直すいい機会になる。


ニューベリー氏は、五輪は「テレビ用のイベント」と批判的に論じたが、悪いこととは思わない。今、世界中で行われている予選大会も、ほとんど観客を制限するか無観客。それでも、テレビやインターネット中継で楽しむ術を、我々はこの1年で手に入れた。


過去の五輪とは違う大会になる。ただ、五輪自体が「変わる」ことは、IOCや組織委員会の思いでもある。新型コロナ禍での大会から新しい発見があり、それが今後の五輪に生きる可能性もある。感染症の中での開催が、今後ないとは言い切れないのだから。


不安があるのは、みな同じだろう。今後の状況によっては「中止の選択肢もある」。と同時に、どんな大会にするのか、どんな大会になるのか、というのも興味はある。過去の五輪とは違う。新しい「五輪」になるはず。「名ばかり」ではなく、同じ「名」を持った違う大会になるのだ。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)