池江璃花子選手のレース後に、「努力は必ず報われると思いました」というコメントがありました。多くの人がその言葉を聞いて、涙を流して感動したのではないかと思います。

一方で、数少なくはありますが「努力は本当に報われるのか」という意見を拝見しました。このタイミングですと水を差すような言葉だと思われがちですが、しかし、実社会において努力は報われるとは限らないことは多くの大人が気づいていることなので、これをきちんと考えてみることも大切だと思います。

女子100メートルバタフライで優勝し涙する池江(撮影・鈴木みどり)
女子100メートルバタフライで優勝し涙する池江(撮影・鈴木みどり)

努力は報われるかどうかの前に、言葉というものを考えてみます。普段私たちは会話で言葉を使っていますが、一体何をやりとりしているのでしょうか。

スポーツ選手の言葉がなぜ響くのかというと(全てではありませんが)、体験を通じて感じたことを言葉にしているからだと思います。それは一人称的なとても主観的な体験です。その人にとってはそうだったわけで、それを客観的に観察したという話ではありません。誰にとってもそうだという事実かどうかもわかりません。ただ、その人にとっては本当にそう感じられたことが言葉になっているのだと思います。

「努力は絶対裏切らない」

池江選手にとってこれほどリアリティーのある言葉はないと思います。競技者として自国開催の五輪を前にして、まさかの白血病の診断。競技の前にまず生きるか死ぬかという状態に置かれ、そこから大変なリハビリを経て、ようやくトレーニングができるまでになったのだと思います。復帰して時間がなかったことを考えると、今回の目標はできる限りの力を出す、だったのではないでしょうか。それが最後まで力を出し切って本人にとっても驚きをもった優勝だった。「あぁ、苦しい時も努力してきて、諦めないで本当によかった」。これまでのさまざまな出来事や思いが去来したでしょう。表情が言葉の1つ1つが本当に彼女自身と一致して感じられました。

一方、事実を語るという言葉があります。例えば、「努力は(誰にとっても)裏切らない」という言葉が本当かどうかを追求しようとするなら、まず努力とは何かを定義し、裏切るとは何かを定義する必要があります。努力すれば(誰でも)世界一になれるという言葉が客観的事実かというと、世界一が極めてまれなことを考えると事実とは言い難いと思います。それを事実にするなら、世界一になれていない人はみな努力が足りないということになります。

女子100メートルバタフライ決勝で力泳する池江(撮影・鈴木みどり)
女子100メートルバタフライ決勝で力泳する池江(撮影・鈴木みどり)

私たちは、意識的にまた無意識的に、これらの言葉を使い分けます。より客観的に(何をもって客観的というかが難しいですが)正しい言葉といえば後者の言葉になるのでしょう。しかし、これも何にとっての正しさかによって違います。アスリートの言葉は極めて主観的な体験に立脚しています。それは、誰にとっても当てはまる言葉ではないかもしれません。けれどもその本人にとってはまさにそうとしかいえないような生き方をしてきたからこそ、その言葉は強く人の胸を打つのだと思います。

池江選手の言葉が感動を呼んだのは、他ならぬ彼女だけの人生を生きている結果の言葉だからではないでしょうか。その人の言葉はその人にしか本当の意味はわかりません。そして、このような機会に私たちひとりひとりが、他ならぬ自分にしか生きられない唯一の人生を生きていることに気付かされるのだと思います。

「私たちが人生に意味を問う前に、人生が私たちに意味を問いかけている」(ヴィクトール・エミール・フランクル)

【為末大】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「為末大学」)