高校バレーボール界には3大タイトルがある。夏の高校総体、秋の国体、そして年明け早々の春高バレー(全日本高校選手権)だ。13年1月。その3冠を手中に収めた愛知・星城高、男子バレーボール部の竹内裕幸監督(41)は、2年生エース石川祐希(現中大3年)を見ながら思った。「これから過ごす、高3の1年間が無駄になるんじゃないか…。勉強に飛び級があっても、バレーにはないからなあ…」。

 時は流れ、16年12月6日。日本代表のエースに成長した石川は、大きな1歩を踏み出した。直前の全日本大学選手権優勝を置きみやげに、バレー強豪国のイタリアへと渡ったのだ。来春まで1部リーグのラティーナに身を置き、世界トップレベルの経験を積む。1年時にも同国のモデナに約3カ月間所属。戸惑いも多かった前回から成長し、今回は「試合に出る強い意志を持って、精いっぱい戦ってきたい」とスタメン奪取をもくろむ。その教え子を竹内監督は愛知から「バレー界ではなく、石川祐希がつかんだ新たな道だと思う」と見つめていた。


星城時代の石川祐希(写真は2013年1月13日)
星城時代の石川祐希(写真は2013年1月13日)

●規格外だった天性の才能


 とにかく規格外だった。石川が高1の夏。総体の準々決勝後、大活躍の男は竹内監督に「おなかが痛いです…」と訴えた。「トイレ行ってこい」。戻ってきた石川は「先生、こんなんになっています」とシャツをめくる。すると腹筋が上下に割れていた。全力でスパイクを決め続けた代償の肉離れ。大会後に指揮官は石川を呼び「F1のエンジンを持った軽自動車が、アクセル全開にしたらどうなる?」と問いを投げかけた。石川は「ぶっ壊れますね」と苦笑い。体に考慮した制御が必要なほど、天性の才能を持っていた。

 当時から竹内監督は1つの指導方針を持ち、石川と接していた。「将来、バレー界を背負う時のために発信力を身につけてほしい」。高校1年秋。石川はバレー人生で最初のファンに出会った。山口国体での試合後に小学生の女の子が1人、石川の前で自らのシャツを引っ張っている。「お兄ちゃん、サインしてよ」。照れた石川は「(シャツが)もったいないからいいよ」。すかさず竹内監督が言葉をはさんだ。

 「この子がお前の名前を知りたがっているんだから、やれよ」

 「僕、サインなんかないです」

 「漢字で書いたらいいじゃん」

 それから1年、2年…。スター街道を歩む石川を求めて愛知県大会の試合後、体育館の入り口に出待ちのファンがあふれるようになった。「先生とか、みんながバスで待っているので…」。チームに遠慮する石川に、その時も竹内監督は「全部やってこい。待っておくから」と指示を出した。他の選手と監督がバスで3~40分待つことは、星城の日常茶飯事だった。

 バレー界を変える期待を込めるからこそ、竹内監督の頭に高校3年の1年間が「無駄になるかも」とよぎったのだ。そこでチームの主将を命じ、あえて石川へ「壁」を作るようにした。ある試合では「石川を1度も(アタックで)使わずにセットを取れ」。うまくいかなければ「お前がどう動くか考えろ!」と理不尽にしかりつけた。

 素顔は大のバレー好き。繊細さを持ち、食事の際の食べる順番、体のケアなどにも高校時代から気を使っていた。学校生活で怒られることもない優等生。だからこそ理不尽なことや、意味がないことの繰り返しが性に合わないタイプだった。とんとん拍子で進むバレー人生。そこに指揮官は意図的な「壁」を作り、乗り越える力を蓄えさせる1年にした。結果的に2年連続での3冠を達成する。だが、1年間の歩みは前年と大きく違ったものだった。


イタリア出発を前に抱負を語る中大・石川祐希=12月5日
イタリア出発を前に抱負を語る中大・石川祐希=12月5日

●「信頼を取るしかない」


 前回の海外挑戦中だった15年2月。竹内監督は石川と、高校時代の同級生で同じくモデナに練習生で留学していた川口太一(21=豊田合成)の2人を応援しようとイタリアへ渡った。ある晩、石川が住むマンションの一室で30分ほど、膝をつき合わせる機会があった。当時大学1年の石川はこう言っていた。

 「言葉がしゃべられないのがつらいです。パフォーマンスをもっと出せるはずなのに、しゃべられないから使ってくれない」

 「壁」は、そこにあった。だが、竹内監督は優しい言葉をかけなかった。

 「監督もプロだから、19歳の日本から来た小僧に、自分の家族の運命は預けられない。いつ帰るかわかんないヤツに、自分の家族と子ども、チームの勝利は託せないぞ。まずは敗戦処理でもなんでもいい。信頼を取るしかない」

 あれから2年。リオデジャネイロ五輪出場権を逃すなど曲折を経て、石川は再びイタリアでもまれることを選んだ。竹内監督はまず、「多くの人に応援されているからこそ、周りがそういう場を作ってくれる」と石川の人間性を評価した。

 2020年東京五輪へ、名実共に期待を受ける立場にある。その21歳は大学という枠を飛び出し、自らの意志で「海外再挑戦」という壁に立ち向かうことを選んだ。イタリアで大人気という漢字のサイン。その爆発的な人気沸騰を願いつつ、「天才」と呼ばれる男による壁の乗り越え方に注目したい。【松本航】

 ◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。大体大ではラグビー部に所属し、13年10月に大阪本社へ入社。プロ野球阪神担当を経て、15年11月から報道部で西日本の五輪競技を担当。多競技の知識に深みを持たせるのが17年の目標。