本当に格好悪いことと、格好悪さをさらけ出せる度量というのは違うと思う。

 格好悪さとは政治家の苦し紛れのうその取り繕いであったり、自己保身のみに専心した狭苦しい愚行である。

 翻って、格好悪さをさらけ出せるというのは一つの魅力だ。普段の見られ方、見せ方を熟知した上で、そこから崩れ落ちる自己をあえて保身しない勇気ある決断だ。

 6月9日、新日本プロレスの大阪城ホール大会、IWGPヘビー級選手権に敗れた王者オカダ・カズチカを見ながら、そんなことを考えた。

 この1カ月、個人的に響き続ける言葉がある。

 「格好良すぎることは格好悪い」

 プロレスを愛すること60年以上、作家、脚本家の内館牧子さんの真理だ。それはIWGPヘビー級王座の最多防衛記録、12度目の達成を控えたオカダについての印象を聞いた5月の取材の中に出てきた格言で、強すぎる王者への暖かい辛口だった。

 オカダは「格好良すぎる」というのが、内舘さんの見立てだった。191センチ、躍動する肉体に、眼光鋭い類いまれなマスク。男性の理想型の1つの体現に強さが加われば、それはそうなる。ただ、あえてその完全無比のさらに上を求めたいというのが、「格好悪い」という進言につながった。

 思わず、うなずいた。人間、常に完璧ではいられない。特にプロレスというものは、負けっぷりを競う競技でもある。一握りの勝ち組になれない人間の憧憬(しょうけい)を勝ち取ることもトップレスラーの条件ではあると思うが、勝ち組から崩れ落ちながら、そこからはい上がる姿にも共鳴する。それは長いスパンではなく、1つの試合の中においても発現する。ピンチからどう起死回生するか。そこに熱が生まれる。

 この2年間、オカダが続けてきた最長、最多防衛記録のIWGPヘビー級戦線。誰もが終わりはいつ来るのかと1度は頭をよぎったと思う。終わり方への想像力は、むしろこの12度の防衛という長期政権を築いたが故の、オカダしか成しえない魅力だった。

 そして、6月9日、その時はやってきた。好敵手ケニー・オメガとの64分50秒の極限死闘の果てに、ついに王座陥落の瞬間はやってきた。

 その終わり方は現場で観戦した者として、ある種の格好悪さへの序曲、芽生えを感じさせるものだった。いままでレインメーカー(短距離式ラリアット)を放ちながら、腰が立たずに自ら崩れ落ちたことがあっただろうか。目を泳がせながら、ロープにもたれることがあっただろうか。

 IWGPヘビー級史上初の時間無制限3本勝負という究極の消耗戦の果てにこそ、オカダの従来なかった境地の一端が見えたような気がする。60分が近づくにつれ、よれよれに、どこかはかなさを感じさせるようにあえぐ姿。完璧とは程遠い「弱さ」。それは格好悪いけれど、格好良く映った。

 試合後はコメントを残さなかった。次に姿を現し、何を語るのか。最強王者としての歩みが止まった今こそ、オカダの格好悪さの肯定を見てみたい。【阿部健吾】