第97回箱根駅伝は駒大の逆転優勝で幕を閉じた。トップでタスキを託された創価大アンカーの小野寺勇樹(3年)は、初優勝に向け走りだした。駒大との差は3分19秒。だが、途中で失速。セーフティーかと思われたリードは、どんどん縮まった。5・9キロ地点で2分45秒、18・1キロで47秒と徐々に差を詰められた。残り2キロ。駒大の石川拓慎(3年)にかわされ、惜しくも2位となった。

今から35年前、同じように最終区で逆転された苦い経験をもつ選手がいる。藤原良典さん(58)。86年の第62回大会で、早大のアンカーとして箱根を走った。トップでタスキリレーも、10・5キロ地点で2分6秒差だった順大に逆転された。

「なんとなく(後ろから来ている)気配はしました。完全にスピードが違った。テレビの中継車なんかが、一斉に抜いた選手を中心に動いた。それは寂しかったですよ」

早大は3連覇がかかっていた。だが、入試制度が変わり、推薦入学者が減少。10人で走る箱根では、極端に部員が少ない年でもあった。選手を選ぶ段階で、高校時代に800メートルを主戦場にしていた藤原さんに声がかかった。

「部員が15人ぐらいしかいなかった。私が一番力がないので、逃げ切りでアンカーを任せられた。絶対に勝たれへんと思われるのもつらいけど、みんなは今年は優勝は無理だと思っていた。今ではいい思い出ですよ。でも、もっと練習がんばっていたら、逃げ切れたのかなと思うことはある」

今年の創価大は、3位が目標だった。思わぬ順位でのタスキリレーで、榎木和貴監督は小野寺の失速について「緊張からくる精神的なもの」と推測した。35年前の早大も2位を想定していた。テレビ中継は翌87年からで、携帯電話もなかった時代。トップで来ていることは伝え聞いていた。

「10区は、最後のチーム順位が決まるわけだから、プレッシャーはすごい。(創価大の)アンカーの子も、まかさ自分のところでトップと思っていなかったんじゃないかな。私もそうだった」

卒業後、トヨタ自動車で陸上を続け、2年後に地元の兵庫・稲美町に帰り、家業の自動車整備工場を継いだ。今は稲美中で専門指導員として、未来の長距離選手を育てている。箱根を走った当時、藤原さんは4年だった。小野寺は3年。まだチャンスはある。

「来年、リベンジする機会が与えられた。下級生も多いし、来年は優勝を狙えるでしょうね」

35年の時を経て思い出した記憶。今年の箱根を苦悶(くもん)の表情で走った若きランナーの姿がどこか自分の経験と重なり、エールを送った。【南谷竜則】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

86年1月、箱根駅伝後、取材に応じる早大・藤原良典
86年1月、箱根駅伝後、取材に応じる早大・藤原良典