夢が現実になった。マスターズで松山英樹が日本男子初のメジャー制覇を成し遂げた。松山にとって念願だった勝利は、日本のスポーツ界にとっても快挙。さまざまな人物、側面から「夢のマスターズ 日本人初V!!」と題した連載で、この偉業に迫る。

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日本の自宅で、住友ゴム工業クラブ担当の宮野敏一氏(40)の携帯電話が鳴った。「ありがとうございました」。マスターズで優勝した松山英樹が表彰の合間にかけてきた。早藤将太キャディー、目沢秀憲コーチもかけてきた。電話越しのおえつに、宮野さんも泣いた。

オーガスタで松山のクラブをチェックした後、コロナ禍で木曜日からコースに入れず、帰国した。11日の日曜日に成田空港に着いた後、スマホを見て、最終日を前に松山の4打差リードを知った。「ビックリ。“何が起こってんだ”って。日本のゴルフ関係者で知ったの、僕が一番、遅かったかも」。歓喜の時は自宅のテレビで見届けた。

03年春、関東の私立大を出て、テーラーメイド社でクラブ調整をするクラフトマンになった。「キャディーをするつもりだったんですけど、それもおもしろいかなと」。クラブの知識、仕事を一から学んだ。腕を上げ、不動裕理、青木功、尾崎将司らも担当した。

16年10月、埼玉・狭山GC開催の日本オープンで、初めて松山と会った。「テーラーのフェアウエーウッドを試したい」と頼まれた。「底が見えない感じでした。不動さんもそうだったけど“どういう人?”って」。興味を持った。「クラブにものすごく興味を持っているんだけど、考え方が複雑すぎて困ってるというか、試しすぎちゃうというか…。そこをくみ取ってあげられたら、爆発的に良くなるんじゃないかと」。力になりたい。職人の本能がうずいた。

宮野さんも行き詰まっていた。19年10月、千葉・習志野CC開催のZOZO選手権でウッズの“ニコパチ”(クラブを手に笑う写真)を撮る仕事を任された。誰の助けもなく、ウッズに片言の英語で頼み、胸にドライバーを押しつけた。「そんなことができちゃった。で、“このままここにいたらダメになるんじゃ”と」。会社で確固たるポジションを得た。いや、得てしまった。環境をリセットし、ゼロから米ツアーで、世界で力を試したい。38歳だった同年暮れ、住友ゴム工業のオファーを受け、決断し、20年初めに移籍した。

松山は昨年秋から、ダンロップのドライバー「スリクソンZX5」を投入した。同社と用具使用契約を結ぶ身で数年間、他社のドライバーを使っていたから、大きな話題になった。「彼もスリクソンを使いたいと思っていたはずです」。メジャーで戦い、勝てる武器ができた。そこに宮野氏のサポートが加わった。

世界での戦いを夢見た2人が、妥協を許さぬ姿勢で融合した。宮野氏には無数の“祝電”が届いた。ダンロップ関係者はもちろん、他メーカーの仕事仲間から。テーラーメイド社の社長、幹部、元同僚も「おめでとう」と連絡をくれた。「ドライバーに関して、米国では日本製が下に見られてた。でも、メーカーが頑張って、みんなが頑張って“日本人はオマエらに負けてねえよ”と。それが1つ証明できた」。日本男子初のメジャー優勝だが、まだ1つだけ。2個目のメジャータイトルへ。「予感ですけど、次は早めに来るんじゃないですか」。そう思っている。【加藤裕一】