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後藤新弥の「スポーツ&アドベンチャー」

2006年11月5日更新

ウェストンの歩みを辿る

日本アルプスの父しのび、オヤジ版「登山と探検」

 英国人宣教師ウォルター・ウェストンは、山を愛する者すべてにとって祖父のような存在だろう。まだ登山という概念がなかった明治時代に日本人に先駆けて各地の山に登り、その体験を1986年(明治29年)「日本アルプスの登山と探検」という本にまとめて世界に紹介した。真のスポーツマン精神に富んだ登山家だった。その人となりにもっと触れたくて、長野・上高地へ出掛けた。彼が幾度も通ったという徳本(とくごう)峠に登ってみた。



河童橋~北岸へ

ウェストンもここに立ち、穂高から槍への尾根筋に胸を躍らせたに違いない(徳本峠で、長谷川文撮影)
ウェストンもここに立ち、穂高から槍への尾根筋に胸を躍らせたに違いない(徳本峠で、長谷川文撮影)

 梓川のせせらぎまでが冬の訪れを告げていた。

 吐く息が、白かった。

 有名な河童橋から少し西に戻った北岸に、日本アルプスの父の碑があった。英語だが数字は分かる。1861~1940。穏やかな表情だ。ああ、これがその人か。初めて見るレリーフに、キリスト教宣教師だった事も忘れて、思わず手を合わせて拝んでしまった。

 山好きの諸氏同様、おやじも彼の「日本アルプスの登山と探検」(青木枝朗訳、岩波文庫)を表紙が擦り切れるほど読んだ。ダービー市出身で1888年(明治21)に来日。足かけ7年の間に登った槍ケ岳や穂高岳、御嶽山など、幾多の山行を朗らかに記録した。

 スイスがそうであったように当時の日本にも登山の習慣がなく、高い山に登るのは猟か宗教的な目的に限られていた。そこに「何かを得るためでなく、ただ登って下りるのを愉快と感じる」スポーツとしての登山を紹介し、実践してみせた。地図も装備も貧弱な時代だったが、彼はいつもトラブルを楽しんだ。



槍や穂高への道

峠から島々側は通行止めになっている
峠から島々側は通行止めになっている

 槍や穂高へ登るたびに通ったのが徳本峠だった。昔はここが上高地の入り口だった。ウェストンの心意気に少しでも触れてみたい。そんな思いで峠を目指した。

 梓川に沿ってさかのぼり、明神池から南に折れた。標高が高い分、急ぐと息が切れた。沢伝いに1時間半、不意に視界が開けると徳本峠小屋の前に出た。

 いまだにランプ生活の簡素な山小屋だ。管理人の岩本正義さん(57)が「今年は島々側の道が崩壊して通行止めなので例年ほど多くはないが、ウェストンをしのんでやって来る年配の登山者は後を絶たない」。

 峠からは北アルプスの鋭い尾根筋がくっきりと見えた。1982年(明25)、ウェストンは日本人の登山家より10年も早く、2度目の挑戦で槍ケ岳に登頂した。彼もここに立ち、同じ景色を見て「今度こそ」と決意を固めたのかと思うと、胸が熱くなった。

 時を過ごすと島々側から霧がはい上がっていた。体が急に冷えて指先が痛み始めた。山の秋は天気がすぐ変わる。急いで下山した。



資料室に著作集

上高地西糸屋山荘(電話0263・95・2206)資料室で奥原さんの話を聞いた
上高地西糸屋山荘(電話0263・95・2206)資料室で奥原さんの話を聞いた

 午後の河童橋は京都の渡月橋のようなにぎわいだった。近くの上高地西糸屋山荘を訪ねた。別世界のように静かな宿だ。「峠へ無事行かれましたか、それはよかった」。3代目のご主人奥原宰さん(50)は立大山岳部主将として活躍、海外遠征の経験も豊かな人だ。資料室にはウェストン全著作集や旧制一高(東大)生が使った昭和初期のスキーなどが整然と並んでいた。

 「業績上に彼の的確なルート選択や基本技術の確かさに驚かされます。来日前にスイスアルプスで経験を積んでいたんですね。それ以上に、登山を純粋なスポーツとして、成功も失敗も同じように楽しんだ精神が非常に印象的です」。

 そういえばと、6年前のウェストン祭で立教学院塚田理院長が講演した「文化としての登山」の資料を出してきてくれた。

 「当時の英国では教育家T・アーノルドがラグビー校で実践、提唱した『スポーツを通した人間教育』が高く評価され、パブリックスクールではアマチュアリズムやフェアプレー精神を体験学習させる事に熱心だった。ウェストンも実はパブリックスクールの名門ダービー校の卒業生で、そうした教育を受けた1人だった」。そんな要旨だった。



記録に高い価値

徳本峠小屋
徳本峠小屋

 宣教師でもあり登山家でもあったが、それ以前にスポーツマンでもあった純粋で強固なアマチュア精神の持ち主だった。

 はっとした。同じくこの時代の英国の青少年教育に胸を打たれて「スポーツこそ世界平和の原点になる」と発奮したフランス人を知っている。クーベルタンである。母国の若者は運動をせずひ弱だったが、英国のパブリックスクールを視察して「目からうろこが落ちた」と述べている。そこから五輪運動が始まった。

 五輪の父と日本アルプスの父。精神は同じ時期、同じ源から流れ出ていた。歴史再発見。第1回アテネ五輪は1896年に開かれた。「日本アルプス-」が出版された年だった。

 ちなみに槍ケ岳の外国人初登頂は「日本アルプス」の実の名付け親でもある英国人ガウランドだった。けれど当時の日本の社会や生活までも独特の正義感とユーモアを交えて世界に紹介した点で、ウェストンの記録は高い価値がある。登山史編さんで有名な故山崎安治さんが本社外信部長だったころ、そう話していた。



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プロフィル
後藤新弥(ごとう・しんや) 日刊スポーツ編集委員、59歳。ICU卒。記者時代は海外スポーツなどを担当。CS放送・朝日ニュースターでは「日刊ワイド・後藤新弥のスポーツ・online」(土曜深夜1時5分から1時間。日曜日の朝7時5分から再放送)なども。
 本紙連載コラム「DAYS’」でミズノ・スポーツライター賞受賞。趣味はシー・カヤック、100メートル走など。なお、次ページにプロフィル詳細を掲載しました。
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