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後藤新弥の「スポーツ&アドベンチャー」

2007年1月16日更新

心の飛騨に鉄路の温かみ

分断高山線、猪谷~角川不通の30キロ区間を辿る

 レールはすでに真っ赤にさび付いて、トンネルの出口には枯れたつる草が垂れ下がっていた。けれど高山線は屈することなくじっと春を待っていた。04年10月の台風23号で富山県猪谷駅~岐阜県角川駅間約30キロが分断された。登山者や観光客にもなじみ深い路線だけに廃線も心配された。山ひだに囲まれた飛騨の最深部、その不通区間をたどってみた。冬の道歩きは厳しかったが飛騨の心が温かかった。予定では今秋にも全線復旧、頑張れ高山線!



いかにも飛騨らしい風景の中、さびた鉄路が春を待っていた。右手は宮川。角川駅近くの踏切で(長谷川文撮影)
いかにも飛騨らしい風景の中、さびた鉄路が春を待っていた。右手は宮川。角川駅近くの踏切で(長谷川文撮影)

 歩き始めたのは不通区間の北の端、猪谷駅だった。東京から越後湯沢、富山と回り、着いたのは昼前だった。乗客はわずか8人。単線の無人駅。ワンマンの気動車はそのまま富山方面へ折り返していった。寒風の駅前に1日7本の代行バスが待っていた。この先、南側の30キロが3年前の大雨で寸断された。

 かつては中部日本を縦につなぐ大動脈だった。切り出された巨木が貨車に満載され、沿線には製材所の音とにおいが漂っていた。昭和の活気をあまりにも真正直に映し出してきた。

 その面影は今はない。

 時代のリストラだ。

 軌道敷地内を歩くのは違反だし、そもそも枕木の間隔が歩幅に合わず、歩きにくい。ほぼ平行している国道360号を南へたどった。いきなりの長いトンネルだった。高をくくって突入したら、どこまで行っても出口が見えない。ほこりを吸い込みせき込んだ。

 これは地獄の入り口か。酸欠で倒れはせぬか、お化けは出ぬかと怖くなって走り出した。一層苦しくなった。出るまでに30分、出口に「越路トンネル、2620メートル」とあった。バイパスはこりごりだ。



猪谷~杉原間、この鉄橋をくぐると旧道が崩壊していた
猪谷~杉原間、この鉄橋をくぐると旧道が崩壊していた

 線路はさびて赤くなり、秋の名残か枯れ草が絡み付いていた。線路に沿って古い道が付いていた。越中西街道と呼ばれた旧道だ。それを歩いた。1時間ほどで杉原駅手前、加賀沢の鉄橋下を抜けた。その先で旧道は崩壊し、宮川の河原に落ち込んでいた。恐ろしい。歩くだけでけっこうな冒険だ。降雪の前だったが、空気をいっぱいに吸うと冷たさで胸が痛むほどだった。

 今回の災害で廃線のうわさも出た。事実、打保駅前後の崩壊がすさまじく、河川そのものが形を変えていた。橋8カ所を含む大きな被害があった。けれど懸命な復旧工事は冬季も続き、河川、国道を含めた総合的な復旧工事を半ば終えている。不屈の鉄路。

 線路と軒を接するような民家があった。「1番列車の音で目覚めて終列車で寝る。そういう生活に慣れてきたから、汽車の音がないと静かすぎて眠れんわい」。庭先の畑でネギを抜いていた老人が、腰を伸ばしながらそう笑った。地元の利用者は半減しても、不通になっても、人々の心の中で高山線は生きている。歩くのは疲れた、と弱音を吐くと軽トラで次の坂上駅まで送ってくれた。  飛騨は心が優しい国だ。



ゴールの角川駅前、玉屋食堂で玉腰歌さん(左)と
ゴールの角川駅前、玉屋食堂で玉腰歌さん(左)と

 そういえば4歳の時、身重で沿線の実家に戻る母に連れられ、この線に乗ったことがある。母が切符を忘れて途方に暮れたが、親切な車掌の計らいで事なきを得た。それから40年も後、出張で特急に乗った時だった。検札に来た年配の車掌に「ところであなた、昔こういうことがなかったですか」と言われて驚いた。

 神業だ。なぜ私と分かったのかと尋ねると「これが我々の仕事ですから」と微笑して、次の箱に移っていった。乗客1人1人の人生にそっと触れながら、表にはめったにそれを出さない仕事ぶりが、思い出すたびに今も胸を熱くする。

 高山線とはそういう路線だ。古き良き飛騨の心を今に結ぶ、豊かな温もり。

 午後遅くにようやくたどり着いた不通区間の終点、角川の駅にも駅員はいなかった。代行バスを案内するガードマンが1人だけ。「詳しいことはほれ、そこの駅前食堂に聞くとよい」。

 飛び込むと、おでんの鍋が湯気を立てていた。昔はどこの駅前にもこんな感じの店が必ずあった。



おお、今年のえとだ! この猪谷駅で富山からの列車は折り返す
おお、今年のえとだ! この猪谷駅で富山からの列車は折り返す

 奥から看板娘が出てきた。「ほう、猪谷から来んさったか、さぶかったやろう。こわいなあ、高山線が通らんで」。玉腰歌さん、75歳。ストーブに手をかざして、熱いほうじ茶をすすった。何よりのごちそうだ。

 「そやなあ。戦後の一時期はこの駅前もにぎやかだった。通勤も通学も、大勢が皆、汽車だった。うちの子が弁当を忘れたとか、主人に何々を伝えてくれと、店にも始終電話がかかってきて、そのたびに駅の待合室に大声で取り次いで(笑い)。駅は暮らしの中心だった。今はもう、町に高校生が1人しかおらん」。

 国道が整備されてバイパスが通ってからは、鉄道は確かに勢いを失った。町は駅前という拠点を失った。過疎化もあって町そのものが消え始めている。

 歌さんはまだ頑張っている。NHKの朝ドラ「さくら」で有名な飛騨市古川から嫁いできたのは53年、半世紀以上も前のこと。「それからずっとここに、こうして(笑い)。高山線にも頑張ってもらわにゃあ」。

 「おっかさん」と呼びたくなる元気な笑顔だった。飛騨のおっかさん。外は日の暮れ、「玉屋」ののれんが風にはためいていた。



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 【郵送宛先】 郵便番号104・8055 日刊スポーツ新聞社 編集局 後藤新弥
プロフィル
後藤新弥(ごとう・しんや) 日刊スポーツ編集委員、60歳。ICU卒。記者時代は海外スポーツなどを担当。CS放送・朝日ニュースターでは「日刊ワイド・後藤新弥のスポーツ・online」(土曜深夜1時5分から1時間。日曜日の朝7時5分から再放送)なども。
 本紙連載コラム「DAYS’」でミズノ・スポーツライター賞受賞。趣味はシー・カヤック、100メートル走など。なお、次ページにプロフィル詳細を掲載しました。
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