高校ラグビーで4度の全国制覇を成し遂げた京都の伏見工が、本年度限りで消滅する。学校統合のため2018年4月からは京都工学院に名称変更となり、花園出場を逃したラグビー部も新チームとして再出発する。校内暴力で荒れた同校を全国制覇へと導いた山口良治総監督(74)の軌跡を、関わった当時の生徒の証言とともに描く。

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■タバコ、麻雀、廊下にバイク

 京阪電車の伏見稲荷駅から西へ5分ほど歩くと、京都市立伏見工業高校はある。

 1920年(大正9年)創立の古い歴史を持つが、70年代はバイク事故の件数が京都ワーストと言われ、教師への暴力は日常茶飯事。シンナーを吸う生徒も少なくなかった。日体大を卒業して日本代表にも選出されていた山口良治は74年(昭和49年)に、伏見工に着任。ラグビー部の監督に就任したのは翌75年のことだった。

 駅から学校へと続く道を歩く。ふと横を見ると、生徒がタバコをふかしていた。駅近くに数軒あったマージャン荘には、授業がある時間でさえも生徒が出入りしている。学校の廊下でバイクを走らせる不良までいた。教師は生徒からの暴力におびえ、見て見ぬふりをしていた。あれから40年以上が過ぎた今でも、山口は当時のことを鮮明に覚えている。

 「タバコを吸っていた生徒を見つけて『お前、何をくわえているんや?』と聞いたら、タバコを下に捨てて『俺か? 俺、指くわえてたんや』と言ってきた。次の瞬間、『お前が吐く息は、そんなに煙みたいに白いのか?』と言ってぶん殴った。そうしたら、後ろにあったコーラ瓶のケースが割れて、弁償させられたこともあった。正直、バイクが廊下を走ってきた時は怖かった。『止まれ!』と心で思っていた。生徒を信じよう、信じよう。そう念じていたら横を通り過ぎた」

 ある日、廊下でバイクを走らせた生徒が教官室に訪ねてきた。

 「ゴメンな先生。先生だけや、俺に注意してくれたのは。誰も俺に注意なんてしてくれへんで」

 その言葉で山口はふと分かった気がした。

 「コイツらは、この不良たちは、本当は寂しかったんや」

 それでも、ラグビー部の活動は苦難を極めた。練習に集まる生徒は数人だけ。練習試合を予定して、全員の切符を買って駅で待っていても、1人も来ないことは何度もあった。教室や部室をのぞけば、タバコを吸いながら、花札や賭博をしていた。千本鳥居で有名な伏見稲荷大社まで生徒を探しに行けば、他校の生徒とケンカをしている。やり場のない不満や憎悪を募らせ、ただ荒れていく一方の不良たち。試合をしても、勝てるはずはなかった。

■ドラマにも描かれた大惨敗

 就任後初の公式戦となった75年5月17日の京都府春季総体。伏見工は0-112で強豪の花園高校に大敗した。ドラマ「スクール☆ウォーズ」でも描かれた場面。目標もなく、悔しいそぶりすら見せない部員を1人、1人殴りつけた。山口は「今やったら、問題になってしまうやろうな」と漏らしながらも、当時の思いをこう明かした。

 「ひどい負け方をしたのに、どいつもこいつも、平気な顔をしていた。本当は、負けるに決まっているし、やりたくなかったかも知れん。でも悔しさを知らない生徒に、自分がやってきたことを、伝えてやりたい。そういう使命感に燃えていた。平気な顔をしていた生徒が『勝ちたい!』と言うてきた。『じゃあ、勝つためにどうするんや』と聞いたら『先生の言うことを聞きます』と。その時に覚悟を決めさせたんです」

 あの屈辱的な試合を、入学したばかりだった蔦川譲(58、兵庫・六甲アイランド高ラグビー部顧問)は、ベンチで見つめていた。キックオフしてはトライを奪われる繰り返し。伏見工のメンバーは、ただ立ち尽くしているだけで、汗もかいていなかった。蔦川も目標を持てない生徒の1人だった。だが試合後に「勝ちたいです!」と叫んだ先輩たちが次々と殴られるのを見て、心の奥底に、何か小さな火がともった。

 「先生が『(殴られた)痛みは3日で消える。だが、この悔しさは一生忘れるな』。そう言いながら殴っていたのは忘れられないです。僕自身、中学の頃から目的がなかった。高校に行って、何をすればいいのか分からなかった。目標なく高校に入って、花園高校に勝ちたいという目標ができた。目標を持つ人生を教えてくれた人、それが山口先生でした」

■翌年には18-12の勝利

 それから、授業には出なくても、多くの部員が練習には顔を出すようになっていた。練習時間になると、1年生がマージャン荘まで先輩を呼びに行った。山口は不良たちと真剣に向き合った。練習が終わっても、どこでまたケンカやバイクの暴走行為をするか分からない。夜には生徒の家を訪ねて回る日々。悪行が見つかれば丸刈り頭にさせていたため、蔦川は「せっかくパンチパーマをあてても、次の日に坊主にさせられた先輩もおった。真っすぐに家に帰らないと、いつ先生が来るか分からんから、寄り道もできんかった」。そうやって横道にそれないよう、目標を達成できるように、導いていった。

 大敗からわずか半年後の75年秋、再び花園高に大敗したものの52失点に止めた。生徒はまた殴られることを覚悟した。しかし、山口が発した言葉は意外だった。

 「良くやった。半分に抑えたやないか。お前らは、やればできるんや!」

 その瞬間、目の色が変わった。蔦川は証言する。

 「あの言葉で、みんなのやる気がでたんです」

 翌76年6月5日の京都府大会。決勝まで進んだ伏見工は、18-12で花園高についに勝った。屈辱からわずか1年で112点差を埋め、強豪校に肩を並べるまでになった。

 伏見工という荒野にまいた種は、芽を出そうとしていた。“京都一のワル”と呼ばれた男が、入学してきたのは、そんな時だった。(敬称略、つづく)【益子浩一】