異色の苦労人が念願の五輪切符を手にした。全日本スキー連盟は22日、平昌(ピョンチャン)五輪代表選手のうち12人を発表。フリースタイルスキー男子エアリアルの田原直哉(36=ミルキーウェイ)は04年アテネ五輪の体操候補だったが、競技を06年に引退後、ほぼ未経験ながらこの種目に転向。民宿で住み込みのアルバイトなどを続けた努力が実を結んだ。全代表は来年1月下旬に出そろう予定。

 田原が悲願の五輪切符を手にした。「この年なので経験を積んで、次の大会に生かすということはない。楽しむ余裕はないかも」と笑った。37歳1カ月での冬季五輪デビューは日本歴代4位の遅さだ。今年3月のW杯7位で、全日本スキー連盟が定める派遣推薦基準を突破した。

 8歳から体操を始め、01年にナショナルチームとなった。代表入りも期待された04年アテネ五輪は選考会で振るわず、落選。次の北京五輪を目指した06年2月に、悩まされていた右肩に激痛が走り、手術が必要と宣告された。北京は諦めざるを得なかった。そんな時、トリノ五輪のエアリアルの映像を見た。「これならできるかも」。同年8月、ピークを過ぎていた体操を引退し、転向を決めた。

 家族からは、働くよう反対された。それでもチームメートだった米田、水鳥らがアテネ五輪で金メダルを獲得。その姿が脳裏に焼き付いていた。

 田原 とにかくオリンピックに出たかった。体操は好きだけど、固執したら出られない。そのまま辞めようと思う方が難しかった。正直、辞めれるなら、その方が楽だったのかなと思う。

 同年9月には練習場があった福島に転居。ただ空中感覚はあってもスキーはできない。「賭けだった」。「ハの字で止まる」から学び、あえてスキーのインストラクター養成コースに入った。「人に教えながら、自分も練習した」。先生が下手では示しがつかないと、自らを追い込む意味もあった。現在は友人宅を借りて住んでいるが、6年前から今春まで長野・白馬村の「岳園荘」で接客をしながら、居候して練習に励んだ。金は海外遠征費に消えていく。「苦しいのは生活だけ。それでも生きられる」と笑う。野球界では松坂世代。初舞台では37歳の生きざまを見せる。【上田悠太】

 ◆田原直哉(たばら・なおや)1980年(昭55年)12月24日、和歌山市生まれ。体操では01年全日本学生選手権3位、05年東アジア杯団体銀メダルなどが主な実績。エアリアルでは世界選手権に13年17位、15年22位、17年15位。W杯は12年1月、16年2月の3位が最高。165センチ、68キロ。