【ブダペスト26日=三須一紀】平壌の新体育館、珍しい国際競技大会の開催に2万人以上の観客が押し寄せていた。

今から40年前、79年の世界選手権。当時、日本楽器所属だった小野誠治さん(62)は、世界王者を懸けて戦っていた。

相手は当時世界トップ選手の郭躍華。大観衆も「歓声は全く聞こえなかった。聞こえたのはボールの音だけ。今で言うゾーンに入っていた」。卓球が正式採用された88年ソウル五輪で男子最高の16強入りしたが「ゾーンに入ったのは、79年のあの1度だけ」と振り返る。「カミソリスマッシュ」と呼ばれたフォア強打で決勝まで連続で中国人4人を倒し、王者になった。

当時はナショナルトレーニングセンター(NTC)はなく、代表合宿も東京、千葉、埼玉などの体育館を借りた。国際大会も年3、4回。80年代以降、日本卓球界は低迷したが「日本が努力しなかったわけではない。中国、欧州の努力が上回っただけ」と語る。08年にNTCができ「良い練習ができるようになり、若い子が伸びた」と昨今の競技力向上に目を細めた。

男子シングルス準々決勝で40年ぶりのメダルに挑んだ丹羽孝希だったがフルセットの末、あと1歩及ばなかった。張本智和も16強で姿を消した。小野さんは「とても残念です。でも良い試合でした」と語った。

張本へアドバイスも送った。「張本選手のバックハンドは超一流。でも世界のトップとラリーになった時には、強いフォアハンドが必要。スマッシュ、ドライブと強いフォアができれば幅広い攻撃ができてさらに強くなる」。

来年はいよいよ東京五輪。小野さんは当時を思い返し「『これが最後のプレーだ』と退路を断って試合に臨んでほしい。そうすれば来年の東京五輪でも良い結果が出ると思います」と日本代表にエールを送った。