「『3・11』の時の夜空のように、真っ暗だからこそ見える光があると信じています」。

フィギュアスケートで五輪2連覇の羽生結弦(25=ANA)が17日、日本オリンピック委員会(JOC)の公式ツイッターに動画で登場し、新型コロナウイルスの感染拡大が進むなかで、そうメッセージを伝えた。

11年の東日本大震災。仙台在住だった自身も被災した経験を振り返りながら、自分にも語りかけるように言葉を選んだ。

前日16日夜に、20年の世界選手権(3月16~22日、カナダ・モントリオール)の延期断念が正式に決まった後のタイミング。過去の大会での羽生の戦いに思いをはせると、「見える光」を探すように戦い続けた結晶こそ、12年3月、フランス・ニースでの世界選手権だったと思い返す。それは鮮烈な滑りだった。

11年3月11日、仙台のリンクで練習中に被害に遭い、スケート靴が脱げずにリンクにひざをついて逃げた。4日間は家族4人が避難所で暮らした。畳1畳に毛布1枚の生活も味わった。その後は練習場が使えないことから、復興支援のショーに60以上も出演しながら、技術を磨く日々。当時16歳の青年には想像を絶する過酷な毎日だっただろう。「被災地代表みたいに何でも取り上げられるのが嫌だった」という時期もあったと聞いた。

同年9月、ネーベルホルン杯で幕を開けたシニア2年目。ロシア杯でグランプリシリーズ初優勝を果たすと、全日本選手権で3位に食い込み、世界選手権の切符をつかんだ。そして、迎えた春のフランスのリゾート地での世界一決定戦。

ショートプログラム(SP)は7位発進。いまでも語りぐさになる演技が生まれたのが翌日のフリーだった。冒頭で、完璧な4回転トーループを着氷。波に乗ったが、途中のステップで勢い余って転倒するアクシデントがあった。だが、「逆に休めたと前向きにとらえた」と今も不変の気持ちの強さで、続く3回転半-3回転の連続ジャンプを高く鮮やかに決めてみせると、強烈な印象を残したのはステップに入る前の雄たけび。体力的にきつい最終盤へ、自らを鼓舞するような青年の叫びは会場をどよめかせ、一気にクライマックスに緊張感と歓喜の予感を充満させていった。

演技を終えると右拳を大きく振り上げ、眼光鋭く前を見つめ、体を震わせた。肩で息をしながら、思わず目頭が熱くなった。「ありがとうございます」。観客に、そしてエールを送ってくれた遠く日本の人々へ。額から滴る汗に、涙が混じっていた。

被災した11年から年が変わった12年1月、転機があった。もらっていた500通のファンレターすべてに返事を書いた。「勇気を伝えようとしていた僕が、本当は支えられていたんだな」。1文字1文字をかみしめた。「自分が出せるのは結果。被災地代表として日本が頑張っているというアピールをしたい」。その一心で、フリーを滑りきった。自己ベストを大幅に更新する173・99点で、総合251・06点の3位は、日本男子最年少での表彰台となった。

その後の活躍は誰もが知るところだろう。ただ、このフランスでの戦いには、特別な記憶を残しているに違いない。

「真っ暗闇なトンネルの中で、希望の光を見いだすことは、とても難しいと思います」。

冒頭のメッセージの前に、こうも語りかけていた。まさに11年の被災直後からはそう感じたのではないか。ただ、それから1年後、自らは滑りで「光」を感じることができたのではないか。

「でも、『3・11』の時の夜空のように、真っ暗だからこそ見える光があると信じています」。

その見えた光の先に、3度目の五輪を視野にするいまの羽生もいる。【阿部健吾】