1987年。高校男子バレーボールで東海大四(現東海大札幌)が1年間に3度、全国の頂点に立った。

全国高校選抜、高校総体、国体を制覇し、北海道勢初、全国でも当時10年ぶり5校目(通算6回目)の高校3冠を達成した。中心メンバーで後に全日本代表でも活躍した主将の成田貴志(50=熊本・鎮西高女子バレーボール部監督)、南由紀夫(51=岩手・盛岡誠桜高男子同部監督)が振り返る。(敬称略)

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あとはクギを打つだけの棺おけの中から東海大四がムックリ起き上がった-。当時の新聞にそう表現された窮地から、北海道勢初の高校3冠が生まれた。87年3月21日、全国高校選抜(春高)1回戦。前年の春高、総体準優勝で優勝候補と目されていた東海大四は宿敵・深谷(埼玉)の前に崖っぷちに立たされていた。

成田 1セット目を取られて、2セット目も3-11でリードされていた。負けは覚悟したけど、このまま北海道には帰れない。もう少し点数を取って帰ろうと声をかけた。

33年がたった今でも詳細なスコアまで脳裏に残る大逆転劇が始まる。74年全国2冠時の主将だった桜田義人監督(故人)ですら「今日はやられた」と腹をくくった。センター南のクイックからの4点目が逆転への序章だった。清水克彦の連続得点、持川敬のサービスエースで7-11とすると、再び南が6得点。全国3冠へつながる驚異の10分間だった。

南 奇跡ですね、あり得ないですね今じゃ。さすがの負けず嫌いの成田も「何とか10点まで取らないとかっこつかないぞ」って言っていたので。

逆転でセットを奪うと、第3セットも制し1回戦を突破。2日後の九州産(福岡)との3回戦も2時間3分の激闘で逆転勝ち。逆転に次ぐ逆転で勢いづいた東海大四は3年連続で駒を進めた決勝も制し、初の春高制覇を飾った。南は「そこの自信がやっぱり大きかった」。3冠につながる歴史的優勝だった。

2冠目を狙った8月の総体は北海道開催。中学時代から期待をかけられ優勝は「至上命令」(南)だった。強気の成田でさえ大会期間中は丼で3杯食べていた夕食のご飯が1杯に減るほど緊張し「プレッシャーはかなりありましたね」と振り返る。それでも網膜剥離で選抜を欠場した緒方正広がレギュラーに復帰。さらに4月からルーキー出倉諭が加わったチームは安定感が増し、決勝で深谷を退けて地元優勝を成し遂げた。

10月の国体は出場10チームのうち単独編成は東海大四のみ。ライバルの深谷、九州産は補強を加えた選抜チームだったが、後は自分たちとの闘いだった。総体優勝後も地獄の陸上トレや実業団の富士フイルムでの3回の合宿、レギュラー分断の紅白戦など徹底した練習は変わらず。鍛え上げられたチームは準決勝で埼玉選抜との2時間10分の死闘を制すと、決勝は開催県の沖縄選抜を47分で料理した。南は「インターハイで仕上がり、国体で熟成した。絶対負ける気はしなかった」。約7カ月に及ぶ3冠ロードを走りきった。

異次元の強さは一にも二にも練習にあった。南は「半端なかった。その時代には戻りたくない。想像を絶すると思いますよ」。桜田監督、石田時郎部長のもと平日も7時間を超える厳しい練習。室内だけでなく陸上部のグラウンドを借りて、基礎体力やバランス感覚を養うための逆立ち歩きや2キロのダンベルを持ってのうさぎ跳びなど10種類のサーキットトレで体を追い込んだ。「毎日嫌だったし怖かったけど、先生について行けば道が開けるという信頼があった。高校3年間があるから今の私がある」と成田。後にバルセロナ五輪に出場する原点になった。

3冠を達成した当時の主要選手は実業団、全日本で活躍後に指導者に。13年4月から盛岡誠桜を指揮する南は「モットーは基本。パス1つから」と東海大四で学んだ教えを次世代に伝える。鎮西を指導して17年目の成田は15年度に春高初出場も翌16年に熊本地震で被災。学校の体育館が2年半にわたり使えない中でも、指導を続けた。「簡単にはあきらめない粘り強さは高校生活で作られた。生き方そのものを学んだ」と成田。高校時代の経験が、今も根幹にある。【浅水友輝】

◆東海大四男子バレーボール部 1964年創部。66年に体育館が完成して石田時郎監督が就任するも、当初は中庭や市内の体育館を借りての練習が続いた。ユニホームは当時1着2000円で丸首の青色のサッカー練習着を代用し、それが後に同校バレーボール部のトレードマークとなる。69年の総体で全国初出場。桜田義人主将が率いた73年国体で準優勝、翌74年に総体、国体を制覇。79年に桜田が指導に加わった後は選抜3回、総体2回、国体1回の全国優勝を果たした。

◆バレーボールの男子高校3冠 選抜が始まった70年以降、総体、国体と合わせ3つの全国大会を制したのは計11校。70年中大付(東京)71、73年大商大付(大阪)75年崇徳(広島)77年弘前工(青森)87年東海大四(北海道)93年釜利谷(神奈川)00年岡谷工(長野)01年深谷(埼玉)12、13年度星城(愛知)14年度東福岡(福岡)16年度駿台学園(東京)。東海大四は94年も選抜、総体を制したが、国体を落とし2冠にとどまった。

○…東海大四0Bで同校で指導を始めて10年目の松田修一監督(33)は「日本で1番を取るのは前提で、どこよりもバレーに対する意識が高い集団でいよう」と選手に声を掛けている。日本一を目指す意識は今でも息づき、3冠時の先輩とは全国大会などで交流がある。新型コロナウイルスの影響で活動は休止も「やれるべきことをやろうと伝えている」と94年以来の全国制覇を目標に再開を待つ。