全国高校ラグビー南北北海道大会が15日、帯広の森球技場で開幕する。開催されれば今年度で第100回を迎える全国大会では、50、60年代に北海道の高校が名をはせた。道勢最多37度出場の北見北斗は51、52、59、62年度の4度準優勝を果たした。最後の決勝進出となった62年度の第42回大会を当時の監督・蓑口一光(88)、主将・尾崎良巳(76)が振り返る。

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全国の高校ラガーマンの憧れの舞台、花園。その歴史の第1歩には“北海の平原児”と称された北見北斗が名を刻む。1963年(昭38)。西宮球技場から会場が移転された大会で、えんじと白のジャージーに身を包んだフィフティーンは初の全国優勝を射止めんとした。

尾崎 我々がジャージーを着て歩くと、弱い学校は道をよけるんですよ。

47年に創部以来、同大会では準優勝と3位がともに3度。国体で6度の3位。大会前には優勝候補の一角に名を連ねていた。

伝統的に強力のFW陣が圧倒し準々決勝まで順当に勝ち上がり、迎えた1月7日の慶応戦。「いくら攻めても点が取れなかった」(尾崎)。実力では有利だった相手に3-3。運命は抽選に委ねられた。

尾崎 抽選の紙には「出場権あり」って書いていたみたいだけど、目がかすんでいて字が読めなかった。審判が「北見」と言って勝ったことが分かった。

蓑口 因縁があった慶応に4回目で初めて抽選勝ちしてね、うれしかった。

過去3度抽選負けした相手に勝っての決勝。風は北見北斗に吹いていた。

3年ぶりの決勝の舞台。相手は犬伏一誠ら後の日本代表選手を多数擁した天理だった。1月9日午後2時開始の決戦。潮目を分けたのは1つのノックオンだった。開始直後のファーストプレー。スクラムからボールがこぼれた。相手陣内には誰もいない。ボールはバウンドしてFW久保勝範の前に。拾うか、足か-。

尾崎 取っていたら独走トライだよ。俺は「ドリブル!」って言ったのに、手を出してノックオンしてしまった。

久保自身も「落とさなかったらトライだった」と語り草のようにする1つのミス。その後は地力のある相手に押され、後半に約50メートルのPGを1本返すのがやっと。3-8で敗れた。

4度目の準優勝に終わったこの年を最後に北見北斗を含め、道勢は決勝の舞台に立っていない。最後に2回戦を突破したのも、90年度の函館稜北が最後だ。

どうして当時の北海道は強かったのか。尾崎は「30センチ雪が降れば30センチ足を上げなければ前に進めない。雪国は強かった。技術じゃなくて体力で勝った」。環境をプラスに変える力。さらに蓑口の方針だった「強いものとやって強くなる」。毎週末には社会人チームと練習試合。後に日本代表になった宮井国夫や寺西博らOBも帰省の度に練習を手伝った。全国大会前には名将、北島忠治監督率いる明大の胸を借りた。卒業後に日体大に進んだ尾崎が「大学は楽で楽で仕方なかった」と振り返るほど。厳しい練習が強豪校へとのし上げた。

今年もまた花園をかけて楕円(だえん)を追う季節が始まる。15日に開幕する北北海道大会の出場校の中に北見北斗の名はない。新型コロナウイルスの影響を受けた練習不足も重なり、地区予選の出場を見送った。それでも思いは常に全国制覇。今でも当時の試合を昨日のことのように記憶する蓑口は言う。

蓑口 ストッキングは優勝したら線を1本増やしたいんだけど、準優勝だからね。だから線は2本のままなんです。

半世紀以上前に花園を沸かせたえんじと白の戦士。そのストッキングにもう1本の線が増える日を願い続ける。(敬称略)【浅水友輝】

◆北見北斗ラグビー部 1947年に創部。蓑口監督が1年生だった49年に2年目で初の全国出場を果たすと、49年の国体3位。全国高校大会では51、52、59、62年度に準優勝。48、50、55年度に3位。単独チームで出場の国体でも64年に準優勝のほか、3位は8度。主なOBに元日本代表の宮井国夫、寺西博、カーリングで18年平昌五輪男子代表の平田洸介らがいる。