バレーボール女子日本代表として64年東京オリンピック(五輪)で金メダルを獲得した井戸川絹子(いどがわ・きぬこ=旧姓谷田)さんが、脳出血のため、4日に大阪府内で亡くなっていたことが、6日に分かった。81歳。葬儀はこの日、家族葬で終えられた。

   ◇   ◇   ◇

井戸川さんは「エースの意地」と「ユーモア」を併せ持つ人だった。64年東京五輪で迎えたソ連との全勝対決。テレビ視聴率66・8%を記録した歴史的一戦を制し、金メダルをつかむ立役者になった。「東洋の魔女」と呼ばれた代表で不動のレフト。当時を振り返り「レギュラーから落とされたら、絶対に嫌やった。もし『落とす』と言われても『嫌』としがみついていたでしょう」と笑っていた。

大阪・池田市の北豊島中で最初に入ったのはテニス部だった。壁に向かっての素振りが1週間続くと、やめた。陸上部に入りたかったが、顧問が「女子はすぐやめる」と入部を認めておらず、最終的に行き着いたのがバレーボールだった。

四天王寺高入学後は名将・小島孝治監督(故人)の方針で、1人だけボールを触れなかった。バスケットボールのゴールを指さされ「あの板を触ったら入れたる」。毎日1時間跳び続けると、やがて届いた。「先生はもともと、アタッカーに育てるつもりだったんでしょうね」。のちにつながるレフトを勝ち取ると、レシーブはしたことがなかった。

「四天王寺の時は『そんなトス打てへん!』って、1度も言ったことがないですから。点を取れなかったら、ものすごい目でキャプテンににらまれる。ちょっとネットより低かろうが、上がってきたら私が打ち込まなアカン。頼られていたし、やらなアカンからね」

日本代表では「鬼の大松」と呼ばれた大松博文監督(故人)の熱血指導を受けた。「1人3本」と言われて始まったレシーブ練習は、なぜか自分だけに10本以上打ち込まれた。腹が立つと、いつも体育館の外に出た。グラウンドに向かい「バカやろ~!」とさけんだのは、1度ではなかった。

監督不在時は壁にボールをぶつけて「ほれ~っ!」とさけび、それに仲間が続いた。後ろ髪に水をつけて汗を装い、大松監督が来ると肩で息をするフリをした。「お前らがしてることは、全部分かっているぞ!」。監督にそう言われても「ちゃんと練習していました! 本当に汗ですよ!」と主張し、練習後に仲間と笑った。口達者だが、誰よりも練習に食らいつく姿を「鬼の大松」は認めていた。

大松監督から「これを読んでくれ」と新聞を手渡され「『みんなを映画に連れて行こう』って書いてあります!」と笑わせたこともあった。練習中にわざと監督の尻を平手打ちすると「ごめん、先生のおしりやった」とおどけた。欠かせないムードメーカーだった。

3年前の17年6月、井戸川さんは20年東京五輪決定時の思いを明かしていた。

「まず『もう1回、出たい!』って思いました。日本で五輪があるというのは、すごくうれしいですね」

亡くなる3カ月前の今年9月3日にも、大阪・豊中市内の喫茶店で井戸川さんに話を聞いた。2杯目となったアイスコーヒーを手にし、来夏に思いを寄せた。

「東京五輪のバレーを現地で応援したいですよね」

半世紀以上前の現役時代と変わらず、元気で、底抜けに明るい人だった。【大阪本社、一般スポーツ担当 松本航】