自動車レースの最高峰F1シリーズが26日開幕の第1戦バーレーン・グランプリ(GP)で始まる。今季は7年ぶりの日本人ドライバー、角田裕毅(20=アルファタウリ・ホンダ)がデビューする。その角田がF1へステップアップするきっかけをつくったのが、日本人初のF1フル参戦ドライバー、中嶋悟氏(68)。中嶋氏に、スーパールーキーへの思いを聞いた。

【取材・構成=桝田朗】

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中嶋氏のひと言が、角田の運命を変えた。16年秋。校長を務める鈴鹿サーキットレーシングスクールのフォーミュラ部門はスカラシップ選考会を迎えていた。同年春に入校した8人は、夏までに4人に絞られ、上位2位には、ホンダの支援でフォーミュラカーのシートが与えられる卒業レース。そこで、角田は3位に終わった。

中嶋氏 テストは講師が私情をはさまないよう、名前と車番を分からないようにしてやった。私が見ていて、一番推したい番号が角田だった。終わってみたら、この子落っこったっていうから、(ホンダに)余裕があればお手伝いしてあげればと言ったんだ。

角田は2位以内に入ることができなければ、レースをやめると決めていた。まさに、崖っぷちからの逆転劇。中嶋氏はシケインやスプーンといったコーナーでの角田の走りに将来性を見いだしていた。

中嶋氏 車速がすごく落ちるところでの操作が気に入ったのかな。彼がシケインに入っていくところ、出て行くところの車の方向転換がちょっと目についた。自分から車の動きを能動的につくる、そういう動きが見えた。F1でいうと(年間王者2回、通算32勝の)フェルナンド・アロンソのように、しっかり方向転換することが、短い時間でできている。ちょっと、ほかとは違う角度で走るドライバーだったけどね。

中嶋氏の推薦によって、角田は17年に念願のF4のシートを手に入れ、18年にはF3へ昇格。さらに19年には欧州でF1の登竜門と言われるレッドブル・ジュニアチームに加入。欧州F3、20年に同F2とトントン拍子にF1への階段を駆け上った。

34歳でF1デビューした中嶋氏には、日本の若手ドライバー育成へ、1つの思いがあった。現役時代から、後にF1参戦する野田秀樹や中野信治を英国の自宅に住まわせ、経験を積ませた。引退後は、ホンダと話し合い、若手育成のための鈴鹿サーキットレーシングスクールを創設した。

中嶋氏 (自分がF1を始めた)34歳では遅いから、早くF1に行けるために、若いうちからやって、早めに判断できるように多くの人が安い費用でできる場所を提供したかった。モータースポーツは自力でやるとお金が大変。スクールという同じ土壌でやれば、あきらめもつくし、次の進路へも変更しやすいから。

そのスクールからは、佐藤琢磨ら国内外で活躍するドライバーが育っていった。中嶋氏が願ったように、20歳でF1デビューする角田のような若者が羽ばたいていった。

中嶋氏 テレビの放送を、嫌でも見るようになるだろうね(笑い)。あまり大きなプレッシャーは必要ないし、チームでどれだけのことができるか。チームメートのガスリーに勝てたらすごいよね。存分に楽しんでほしい。

◆中嶋悟(なかじま・さとる)1953年(昭28)2月23日、愛知県岡崎市生まれ。高校在学中にカートを始め、73年にレースデビュー。87年に日本人初のF1年間フル参戦を果たし、同年ブラジルGPでロータス・ホンダからデビュー。91年まで80戦に出走し、同年の英国GPで自己最高の4位入賞。引退後は、93年から鈴鹿サーキットレーシングスクール校長を18年まで務める。また、ナカジマレーシングの監督としてスーパーフォーミュラやスーパーGTなどに参戦。長男・一貴は07年から09年にF1に参戦。次男大祐もレーシングドライバー。