1964年、東京。「東洋の魔女」と呼ばれたバレーボールの全日本女子は、東京五輪金メダルで大会の象徴となった。この夏、女子日本代表は1次リーグのケニア戦(7月25日、有明アリーナ)から、2大会ぶりの五輪メダルを目指す戦いに臨む。その歩みを静かに見守ってきた人がいた。「もう1回、(東京五輪に)出たいな」-。東洋の魔女が残した最後の言葉とは…。

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気温30度を超える、暑い日だった。

2020年9月3日、阪急電鉄で大阪・豊中市の庄内駅へ足を運んだ。地下の改札から階段を上がる。1人の女性と待ち合わせた。

1964年東京五輪女子バレーボールで金メダルを獲得した「東洋の魔女」の一員、井戸川(旧姓谷田)絹子さん。顔を合わせたのは3年ぶりだった。

すぐ側には娘がいた。少し前に同居を始めたという。「最近、忘れっぽくてねぇ…」と口にする母を心配し、待ち合わせ場所まで一緒に付き添っていた。

自転車が行き交う狭い道でも、手は借りなかった。昭和の雰囲気が漂う1軒の喫茶店に入ると「1人でいいから」と言い、母の性格を知る娘は「じゃあ、また連絡ちょうだいね」と、その場を離れた。そうして、壁際の席で向き合った。

アイスコーヒーを注文して近況を聞いた。本来であれば、その頃には終わっているはずだった東京五輪の話題になった。

「1年延期…。選手の立場だったら、嫌だよねぇ」

素直な感情だった。現役時代は半世紀以上も前にさかのぼる。それでも、当時と今を重ね、こう続けた。

「五輪が決まった時に思ったんです。『もう1回、出たいな』って。それだけ、日本で五輪があるっていうのは、うれしいんです」

喫茶店に入って数十分が経った頃、小さな袋から黒いケースを取り出した。

大きな丸に五輪のマーク、そして「TOKYO 1964」の文字。ふたをそっと開けると、自然と背筋が伸びた。色あせた首かけリボンと対照的に、まばゆい金メダルは輝きを放っていた。

「マスターも見ます?」

井戸川さんはカウンターの方を見つめ、喫茶店の店主にそう促した。だが「ワシはええわ」と、少し無愛想な言葉が返ってきた。

「せっかくやと思って声をかけたのに、失礼やわ」

笑っては流せない。それほど、思いの詰まった勲章だった。

この日に至るまで、数週間前から電話越しでやりとりをしてきた。何度か確認の連絡をもらい、口癖のように「時間と場所をメモしないと、忘れてしまうんです」と話していた。それでも、56年も前の、あの東京五輪の記憶だけは鮮明だった。

「私たちは1日だけ選手村に入って、後はいつもの試合のように、四ツ谷の旅館で生活したんです。(監督の)大松(博文)先生からは『遊びに来ているんじゃない』と口酸っぱく言われました。練習や試合に行く時のタクシーは食べるか、寝ているか…。たまに元気がある日はみんなで『は~るがき~た、は~るがき~た』って歌っていました。あの時間は楽しかったですね」

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普段の練習は午後5時に始まり、深夜2時まで及んだ。大松監督が納得しなければ、うっすらと夜が明ける頃、午前4時まで続くこともあった。それほど過酷だった。あの頃を思い返しながら、新型コロナウイルスに振り回されている現在と重ねた。

「延期は嫌だけれど、辞められなかったと思う。『私の代わりはいない。絶対に自分が出たい』となっていたはずです。試合中もベンチを見て交代の雰囲気があったら、にらんでいました。みんなそう。試合をコートの外から見るのは、絶対に嫌だったんです」

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半袖姿の井戸川さんは、2杯目のアイスコーヒーを飲み干そうとしていた。

迷うことなく発する言葉には力が込められていた。歩んできた道のりへの矜持(きょうじ)が、色濃くにじんでいた。

かつての名セッター中田久美監督が率い、2021年東京五輪に臨む日本代表への思いも一貫していた。

「1年後に『負ける』と思うなら、辞めたらいい。『勝ちたい』と思うなら、一生懸命やったらいい。私はそう思います。代表選手が一生懸命やるのは当たり前。『ケガがないように、練習したことを全部はき出してください』としか、言ってあげられることはないですよね。だって、日本で一番の人たちですから」

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1時間ほどして喫茶店を出た。迎えに来た娘に「ちゃんと話せていましたか?」と尋ねられ「貴重なお話をありがとうございました」と2人に頭を下げた。

それが最後になるとは、想像もしていなかった。

3カ月後の12月4日、井戸川さんは脳出血で息を引き取った。81歳だった。前日3日まで、普段と変わらない様子だったという。

1年延期となった、東京五輪の観戦を楽しみにしていた。目を輝かせて言った、あの言葉を思い出した。

「『もう1回、出たいな』って思いますよ。それだけ日本で五輪があるっていうのは、うれしいんです」-

時代が移り変わっても、その思いは今も生き続ける。【松本航】