誰もが驚くような号泣だった。7月29日、東京アクアティクスセンター。競泳男子の萩野公介(27=ブリヂストン)は、東京オリンピック(五輪)200メートル個人メドレー準決勝を突破して泣いた。ぬぐっても、ぬぐっても、涙があふれる。16年リオデジャネイロ五輪で金、銀、銅を得た天才スイマーが、たった1本の決勝進出に「うれし涙以外の何ものでもない」と言った。その胸に去来したものは何だったのか-。(後編は無料会員登録で読むことができます)

    ◇    ◇    ◇

5年前の夏、頂点を極めた。400メートル個人メドレー金、200メートル個人メドレー銀、800メートルリレー銅。当時は21歳。東京五輪は個人メドレー2冠、得意の200メートル背泳ぎの金メダルも視野に入っていた。日本競泳界初の3冠。北島康介さえもなしえなかった快挙の予感が確かにあった。

未来に影が差したのは、リオ五輪後の16年9月、右肘手術だった。レースや負荷の高い練習をすれば痛みが出て、氷袋で肘をぐるぐる巻きにすることもあった。自由形の伸びやかさが少しずつ失われた。水泳についてあっけらかんと話す性格だが、肘の状態については「言いたくないです」と言葉を濁した。しかし、これまでの貯金もあって、日本選手権や国際大会でメダルをとることはできた。

歯車が狂ったのは、17年世界選手権ブダペスト大会だった。右肘手術から急ピッチで仕上げたため、個人メドレーで400メートルより距離が短い200メートルに照準を合わせた。しかし銀メダル止まり。経過を考えれば、悪くない結果だが、敗北に落ち込んだ。もともと完璧を求めすぎ、わざわざ自分で不安を見つけてはリズムを崩す悪癖を持つ。「この前、土曜日に悪いことを数えたら13個あった」という軽口が冗談に聞こえないこともしばしば。不穏な兆候が漂い始めていた。

衝撃が走ったのは、翌日の800メートルリレー。第1泳者で精彩を欠き、仲間の足を引っ張って、リオ五輪銅メダルの日本は5位。下を向いてプールサイドを引き揚げる途中で事件が起きた。幼少期からのライバルで仲がいい瀬戸に「公介、笑えよ。結果は気にせず、笑顔のほうがいいよ」とねぎらわれた。張り詰めていた気持ちが切れた。立っていられず、四つんばいになって泣き崩れた。

それは、小学生時代から数々のジュニア記録を樹立し「神童」と呼ばれた萩野が初めて人前で見せる涙だった。一夜明けて感想を聞かれた瀬戸が「びっくりした」と目に涙を浮かべたほどの崩れ方だった。

    ◇    ◇    ◇

「死ぬ気で練習しなきゃ」

ブダペストでの金メダルなしがこたえた。もともと練習の強さ、耐久度は抜群だった。どんなハードメニューも黙々とこなして、平井伯昌コーチが「まるでロボット」とあきれるほど。そんな練習の虫がさらにのめり込んだ。

18年1月2日、その真面目さが裏目に出る。年末年始の強化合宿で無理を重ねた。平井コーチから「顔が真っ白だぞ」と練習を止められた。高熱と疲労。同4日に病院で検査を受けると肝臓の数値が異常だった。医師からは「高齢者なら亡くなっている。競技人生どころか、劇症化すれば、命の危険がある」と告げられた。

表向きは「体調不良」とされたが、実は3週間の入院、うち2週間は絶対安静だった。しかし休むことに罪悪感を感じてしまう。「ここで負けちゃいかん」と病院で勝手にバイクをこいでまた発熱。医師に「本当に泳いだらまずい。泳いだらというか、動いたら死ぬ」と厳しく警告された。

ベッドで天井を眺める日々。慰めだった多くの本の中で、1冊が記憶に残った。1902年(明35年)青森の陸軍歩兵連隊による八甲田山雪中行軍遭難事件。大隊長の指示に、中隊長が意見できず、210人中199人の死者を出した。萩野は「僕、中隊長の気持ちがわかるんです」とつぶやいて、知人を絶句させた。期待に応えたい、課題をクリアしたい。そのために体の異常にさえ、目をつぶった。萩野は、のちに「あそこぐらいから、しんどかった。すごく響いた」と、病院での日々を振り返った。

    ◇    ◇    ◇

退院からわずか1カ月強の練習で、4月の日本選手権は瀬戸を下し個人メドレー2冠。「キング・オブ・スイマー」は健在だった。一方で「気持ちも体もしんどい部分があります」と、200メートル自由形を棄権した。この夏、パンパシフィック選手権、ジャカルタ・アジア大会で優勝なし。13年日本選手権で史上初の5冠など、泳げば1位という存在感は薄らいでいった。

19年2月16日。池江璃花子の白血病公表から4日後、萩野の心身にも危機が訪れた。コナミ・オープン400メートル個人メドレー予選、最後の自由形でみるみる失速した。五輪王者が、国内の、しかも予選で次々と抜かれて、4分23秒66の全体7位。自己ベスト4分6秒05から17秒61の遅れ、自身の中学記録4分16秒50にも及ばない。プールから上がった萩野の体は右側に傾いて、その足取りはふらついた。

ひざの故障など、何らかのアクシデントとしか考えられない失速ぶり。「手が震えるような感じ」と寒けを訴えて、決勝は棄権。平井コーチの指示で、病院に直行して血液検査を受けた。18年正月には肝臓の数値異常もあった。しかし検査で異常はなかった。

翌17日には心配する平井コーチに「昨日よりも体が楽です。4月の日本選手権は代表選考だから気持ちが入ると思います」とメッセージを送った。この時点でまだ周囲の期待に応えようとしていた。

2日後の2月19日はスペイン高地合宿への出発日だった。4月の日本選手権で代表入りして、19年世界選手権で金メダルを獲得すれば、東京五輪代表に内定することが決まっていた。五輪切符への最短ルートに向けて、タフな高地合宿で立て直しを図るはずだった。しかし出発前夜、萩野は平井コーチに電話した。

「合宿にいけません」

(後編につづく)【益田一弘】

【五輪2カ月前、自室から出られなくなった萩野・・・後編は会員登録(無料)で読むことができます】>>