競泳男子萩野公介(27=ブリヂストン)が24日、現役引退を表明した。子供の頃から才能を発揮。連戦連勝で、中学時代は自己記録更新を含めて計29回も中学記録を出した。16年リオデジャネイロオリンピック(五輪)で金、銀、銅を獲得。現在も長水路(50メートル)では学童(小学生)記録1、中学記録8、高校記録5、学生記録4、日本記録3と計21個の国内記録を持つ。元担当記者が、そんな偉大なスイマーの軌跡を振り返る。

   ◇   ◇   ◇

「いたずらっ子のような笑顔」が忘れられない。2013年4月の日本選手権の大会前日練習。18歳の萩野は史上初の6冠に挑もうとしていた。自由形、個人メドレー、背泳ぎなどで計6種目。レース間隔が20分余りの時もあるが不安はない。「ワクワクしています」と心底、常識を超えた挑戦を待ちきれない様子だった。

中学2年だった2008年、マイケル・フェルプス(米国)の北京オリンピック(五輪)8冠をテレビで見て、憧れた。初出場した12年ロンドン五輪ではフェルプス、ロクテが複数種目を平然とこなす姿を間近にする。国内では得意種目に絞ることが当たり前だったが「何で今までの日本人がやらなかったのか。それが不思議」。投打の二刀流で全米を席巻した大谷と同じ94年生まれ。常識に縛られない強さを生まれ持っていた。

その日本選手権では6冠こそ逃したが、史上初の5冠に輝いた。「自分自身で限界を決めずにやっている」。同年7月の世界選手権では8日間で7種目、予選などを合わせると17レースに挑み、2個の銀メダルを獲得した。翌14年アジア大会でも4冠。怖いものは何もないかのようだった。だが、栄光のアジア大会以降、あの「いたずらっ子のような笑顔」が減った気がする。

16年リオデジャネイロ五輪の金メダルを目指し、種目を絞る方針を固めた。多種目挑戦は一時停止。夢とロマンから「現実の目標」に切り替えたせいか、より重圧は増したように見えた。細かなケガが増える。もともと繊細な性格だが、メンタル面の弱さも目立つようになった。15年6月には海外合宿中に自転車で転んで右肘骨折。スイマーとしては致命的な大けがに見舞われた。

五輪1年前のアクシデントを乗り越え、16年リオ五輪では400メートル個人メドレーで金メダルを獲得した。種目を絞った成果だったかもしれないが、仮に種目を絞らず多種目挑戦を続けていたら、競泳人生はどうなっていたかと想像してしまう。その後、担当から離れた。右肘骨折の影響もあり、試行錯誤が続く。休養などもあり心配したが、東京五輪を終えた後のすっきりした涙の笑顔を見て安心した。悔いは残さなかったのだなと。【13~16年水泳担当=田口潤】