少々ぎこちない手つきで触れたスマートフォンには、大切にしている2人の孫の写真が保存されていた。

まだ京都の盆地に暑さが残っていた2021年10月13日。伏見工高(現京都工学院)ラグビー部の元監督で、78歳になった山口良治の姿は自宅近くの喫茶店にあった。御所へと続いていく小さな道沿いの店は、普段と変わらない、ゆったりとした時間が流れていた。山口は奥の席に腰掛けると、なじみの店員と気さくに言葉を交わしていた。

ほどなくして懐かしい来客がやってきた。5歳年下で、京都府スケート連盟の副会長を務める加藤真弓だった。好物のカレーライスを注文し、かわいがる孫2人の写真を見せた。強豪の帝京大ラグビー部で4年になった小村健太、1年の真也が笑顔で納まっていた。

「わあ、こんなに大きくなって。よく、小さなスケート靴を履いて、氷の上で滑っていましたもんね」

そんな加藤の言葉を聞くと、20年前を思い返した。

「あれだけ大変なことだと知っていたら、NHKの会長に、あんな思いつきで言わんかったかもなぁ…」

加藤との不思議な縁を振り返り、穏やかに笑った。

山口の人生にラグビーは欠かせなかった。日本代表の名キッカーとして活躍し、1975年に伏見工の監督に就任。同年5月には京都府春季総体で強豪の花園高に0-112で敗れた。

だが、1年後の再戦は18-12と立場が逆転した。たばこやマージャンに明け暮れる生徒に真正面から向き合い、就任6年目には日本一にたどり着いた。そんな山口は1998年、80年度の全国高校大会初優勝メンバーである高崎利明に監督を引き継ぎ、京都市役所に出向した。同市におけるスポーツの環境整備に力を注いだ一面も持ち合わせた。加藤との出会いも、そんな山口の歩みが引き寄せた。

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きっかけは2000年に放送されたNHK「プロジェクトX」だった。教え子と共に出演した番組が縁で、放送後の翌01年にNHKのパーティーに出席した。

すでに2002年夏に西京極総合運動公園内に完成を予定する、京都アクアリーナの館長就任が決まっていた。パーティー会場には当時、NHK会長だった海老沢勝二がいた。「NHK…。NHK…」。ラグビー一筋で生きてきた山口だが、テレビで見たフィギュアスケートの国際大会におぼろげな記憶があった。本能に従い海老沢に近づいた。

「来年、京都に夏はプール、冬はスケートができるアリーナが完成します。京都を世界に発信したい。NHK杯をやりたいんです」

海老沢は驚いていた。

「えっ、来年オープン? ちょっと待ってください。あぁ、来年の開催場所は決まっていないのか…。でも、こういう話は、連盟を通してくるものでしょう」

山口はフィギュアスケートを生で見たことがなく、連盟の存在さえ知らなかった。そうして地元に戻り、当時、京都府連盟のフィギュア部長だった加藤を呼び出した。情熱に満ちた口調で協力を呼びかけ、突然の依頼で戸惑っていた加藤は、その熱意に圧倒された。

ラグビー界の名将は、スケート界に溶け込むのも早かった。2001年には熊本で開催されたNHK杯を視察し、全国の関係者から翌年の開催決定を祝福された。目の前に注がれる酒を一気に飲み干し、関係者と語り明かした。山口には人を寄せ付ける力があった。自らの一言がきっかけとなり、京都初開催のNHK杯は大盛況で幕を下ろした。

「ミスター・ラグビー」と呼ばれた平尾誠二、大八木淳史に始まり、近年では19年W杯で日本を過去最高の8強に導いた田中史朗に松田力也…。名だたる名選手を育成してきた山口だが、フィギュアスケートに触れ、新しい発見があった。

「氷上に立ったら1人になる。どれだけ転んでも、誰も助けてくれない。ラグビーのチーム作りは難しいが、15人もいる。なんて厳しいスポーツなんだろう」

そう言うと、目の前の加藤が穏やかに笑っていた。

山口は現在、時折グラウンドに顔を出して、温かいまなざしで生徒を見守っている。教え子と共にボールを追った日々は、はるか昔になった。座っている時も右膝を温め、移動もつえが欠かせない。それでも教育者として、ひたむきな若者を応援する思いに陰りはない。(敬称略)【松本航】

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