ラグビーファンの間で語り継がれる試合がある。1982年(昭57)1月2日、東京・国立競技場。全国大学選手権の準決勝で、2連覇を目指した同志社大学は明治大学と対戦した。前年度決勝の再戦で、事実上の決勝戦と見られていた。同大が7-3とリードした後半20分すぎ。WTB大島眞也(4年)が密集で退場を宣告され、逆転を許した同大は連覇が途絶えた。“誤審”とも言われたあの日から40年。運命に翻弄(ほんろう)され、多くを語らずにいた人を、京都に訪ねた。【取材、構成=益子浩一】

(前後編の前編/後編を読む)

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★“京都一のワル”と高校日本代表

古都に吹く風は冷たく、曇り空がより一層寒さを感じさせた。2021年の年の瀬。62歳になった大島の体は引き締まっていて、その姿が、今でもラグビーから離れられないという事実を物語っているようでもあった。

「ええ、覚えていますよ。あの場面のことは鮮明に。忘れることはないんじゃないですかね。退場とコールされて、何が何だか分からんかった。6万人の大観衆がいたんやけど、頭が真っ白になってね。僕の目には客席から降りてきた岡先生しか見えなかった。あの試合は、僕にとって、特別な試合やったんです」

同志社のラグビーを語る上で、当時の部長だった岡仁詩という人は欠かせない。それは早稲田の大西鉄之祐、明治なら北島忠治と同じように、昭和の日本ラグビーの象徴でもあった。

「特別な試合」-

確かに彼はそう言った。それは、岡に救われ、育てられたからこその言葉だった。

かつて京都の強豪だった花園高校でラグビーと出合った。入学してすぐの春の大会。花園高が112-0の大差で伏見工業を破ったことは、ドラマ「スクール☆ウオーズ」の題材にもなった。“京都一のワル”と呼ばれた伏見工の山本清悟(前奈良朱雀高監督)は1学年下で、大島が3年時の高校日本代表のオーストラリア遠征で一緒になった。泣き虫先生こと伏見工の山口良治監督が率いた当時の遠征が、ある意味で人生の転機になった。

ホームステイ先の現地の学生は、ラグビーのシーズンが終わればクリケットやサーフィンなど他のスポーツを掛け持ちした。花園高から同志社に進んだ大島は、大学日本一を目指してラグビーに打ち込みながらも、遠征先での光景が頭の片隅から離れなかった。

大学1年の冬。ポジションをWTBからCTBに代えて出た試合で、ラグビーに区切りをつけることになる。

「プレースキックも任すと言われて、うれしくて仕方がなかった。その3日ほど前に股関節をケガしてね。でも新しいポジションやし、挑戦したい気持ちがあって、無理をして出たんです。そうしたら出来が悪かったんでしょうね。見ていたOBの方から『やる気がないなら辞めてしまえ』と叱られた。若気の至りとでも言うんでしょうか。ああ、それなら辞めてやると」

すぐに、岡に退部の意向を伝えた。すると「明日にでもゆっくり話を聞こう」という返事だった。大島は「俺もとがっていたから。もう(退部を)伝えたと思って」。翌日からグラウンドには行かなくなった。

大阪からフェリーに乗り、向かった先は宮崎だった。車に寝泊まりし、オーストラリアで出会った学生のようにサーフィンにのめり込んだ。大学には行かず、そんな生活は1年続いた。

大島の実家は、京都の繁華街である四条近くで洋服の寸法なおし店を営む。携帯電話などない時代。連絡がとれず、心配した岡は買い物の度に店をのぞいた。

「1度、岡先生のところにあいさつに行っておいで」

母からそう言われたのは、次の冬になった頃だった。自由な生活は楽しかったが、どこか心の奥に、しこりのようなものを抱えていた。意を決して、長岡京にある岡の自宅を訪ねた。

「どれだけ文句を言われるんやろう。そう思っていたんです。そうしたら、温かく迎えてくれた。宮崎でのサーフィンの話を、根掘り葉掘り聞いてくださるんです。そして『お前のやっていることは間違いではないぞ。それこそが、スポーツの本来の姿なんや。ワシも1年間ずっとラグビーだけをするのは、おかしいと思っていたんや』と。そう言うんです」

★復帰を受け入れてくれた仲間たち

「戻って来い」とは言わなかった。ただ、席を外した時、夫人がそっと大島にこう告げたのである。

「あの人はね、あんたのことが大好きなんよ。あんたとまた、一緒にラグビーがしたいんよ」

心が大きく揺さぶられるのを感じた。道に迷い、反発してもなお、再び受け入れようとしてくれている。その優しさを悟り、ラグビー部に戻る決断をする。

「今でも忘れません。あの日、えびフライを出してくれたことも。僕は1年間、寄り道をしたので(大学の)4年のうち3年間しか岡先生の教えを請うていないのですが、ただの1度も『こうしなさい』『ああしなさい』と言われたことがない。プレーのこともそう、生き方もそうなんです。先生は『俺はこう思うんやけど、お前はどう思う?』という風におっしゃる。意見をストレートに言えば近道なんやけど、遠回りしてでも自分で答えを見つけなさい。先生は、そういう方でした。我慢強い人やったと思います」

1年の空白を経て、大島は部に戻った。逃げ出した自分を、受け入れてくれるかどうか。不安もあった。京都の碁盤の目の北にある岩倉グラウンド。後に日本代表になる萩本光威、林敏之ら仲間たちの反応は予想外のものだった。みんなが大島が帰ってきたことを喜び、抱きしめてくる選手もいたという。

「絶対に(復帰を)認めてもらえないと思っていたんです。でも、『よく戻ってきた』と言われて、俺は何てバカだったんやろうと気付いた。ツンケンして、いじけて、自分で心を閉ざしていた。ああ、頑張らなアカンなと、そう思っていました」

1980年2月のことだった。その1年後に、大学日本一の扉を開く。

強さとともに、仲間を許し、受け入れる寛容さがその時代の同志社ラグビーにはあった。(敬称略)

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