結果を問わず、心に突き刺さるようなフィギュアスケーターの演技がある。

ちょうど10年前、2012年3月31日、フランスのニースで開催されていた世界選手権の男子フリー、当時17歳の羽生結弦が滑りきった「ロミオとジュリエット」の4分30秒は、フィギュアスケート担当になりたてだった身に、その後の担当歴でのスケートを見る礎、軸のようなものを教えてくれた。

ショートプログラム(SP)7位から臨んだフリーだった。2位の点数をたたき出し、世界選手権初出場で銅メダルを手にしてから10年。その節目に、あの場に居合わせた2人に話を聞く機会をもらった。

1人目は同大会で日本勢として初のペア銅メダルを手にした高橋成美さん。小学生時代から羽生を知る幼なじみは、自身が表彰台に上がった翌日に、会場で見つめた。

「完成はされていないですが、私の心にも深く突き刺さった演技に感じました。変換期の演技だったんじゃないかなと思っています」

確かに、演技自体は完璧ではなかった。ステップでは予期せぬ転倒もあり、最後のスピンではもがくように体を回しきり、レベル2の評価を受けている。ただ、射抜くような目つき、たけだけしい程に、どう猛さも感じさせる姿が、印象に残っている。

高橋さんが教えてくれた。

「羽生選手はもともと『てへっ』という印象で、母性をくすぐるようなところがありましたよね。ただ、そういう面影を残しつつ、だんだんといまのような男らしさ、責任感のある姿が見られるようになった。そういう意味での変換期の始めが、ちょうどニースだったのでは」。

理由の1つにあげたのが、前年2011年に起きた東日本大震災。

「もともと責任感が強く、後輩に対してリーダーシップを取るし、相手のことを思いやる大人びたところがありました。ジュニア時代は演技だけ見ていると、見えなかった部分ではありましたが。それはこのシーズン、震災後のシーズンで変わったように感じました」。

自身も被災者となり、被災者代表のような扱いを受けることへの葛藤や、それでも手紙などで応援してくれるファンに、周囲への恩返しをしたい気持ち。羽生自身が大会前に語っていた。その心の動きが、氷上に持っていた新たな側面を表現させたのか。

 

2人目に当時を振り返ってくれた小林芳子さんは、演技中盤の転倒から会場の雰囲気が変わったことをよく覚えているという。当時は、日本スケート連盟の強化部長としてリンクサイドで見守っていた。

「あそこから、ぐーっと会場の雰囲気が変わりましたね。羽生選手自身も、エネルギッシュというより、自分の力を枯らすまで滑りきる。本当に底力を振り絞るような」。

フランスという会場だから生まれた瞬間だったのではとも、教えてくれた。あれから10年後、同じフランスのモンペリエで開かれた世界選手権でも現地に帯同し、ニースのことを思い出したという。

「フランスの方は、○○選手だから、ではなく、フィギュアを楽しんでいる方が多いですね。一生懸命頑張っている人には絶大なる拍手を送る。初めて見る若い選手にも」。

当時はシニア2年目。いまほどの知名度があったわけではない。その17歳が、1つの転倒を期に、一気に会場の関心を束ねていく。それは記者として見つめた自分も感じたことだった。

南フランスのバカンス地は会場を一歩出れば海だった。泳ぐ人もいた。フィギュアスケート=冬のスポーツのイメージとは全く違った場所。競技に深く傾倒した人ばかりが仮設のスタンドを占めたわけではなかっただろう。その人の集中力までも掌握していくようなすごみがあった。終盤のコレオシークエンスに入る直前に雄たけびを上げた姿に熱狂したスタンドは鮮烈だった。

「あの時、あの場所だったから」。スポーツに限らず、そんな瞬間はある。演技自体にどこまで外的、内的な要因が作用するかは分からない。ただ、10年前のニースのあの時間をつくり出したものは、一期一会の重なりから生まれたことは確かだろう。【阿部健吾】